いつも利用するバス停の近くに、植えてまだ何年も経っていない桜が、今年も満開になった。

 街路樹として植えてある他の桜は散りかけてるのもたくさんある。

 川からの風が冷たいのだろう。

 満開は決まって一歩遅い。

 心の中でいつも思う。

 "お前は偉いなぁ。自分がいつ咲けばいいのかちゃんと知ってるもんな。

 周りが咲いたからって、焦って咲き急ぎもしないで、いつも桜の最後の季節をこうして楽しませてくれるもんな。"

 何かと周囲の目が気になったり、我を失いそうになる時、気が付くとこの桜と話していた。

 ドイツの東側、ポーランドとの国境近くにリーチェンと言う小さな街がある。

 市内にには桜の木が植えてあり、毎年春には見事な花を咲かせるそうだ。

 そして3月にはドイツ、ポーランドの少年少女たちの柔道大会が開催される。

 この行ったことも見たこともない街に、ある日本人の筆跡が残っている。

 この人物のことを知ったのは、最近のことだった。


 
 肥沼信次。1908(明治41)年に、東京、八王子で外科医の肥沼梅三郎の次男として生まれる。

 1938(大正12)年、29歳の時にドイツ、ベルリンへ渡る。ベルリン大学医学部、放射線研究室で学び、同大学で東洋人として初めて教授の資格を取得した。

 1939(昭和14)年、ドイツ軍がポーランドに侵攻。第二次世界大戦が始まった。
 翌、1940(昭和15)年、ドイツ、イタリア、日本が三国同盟を締結。
 その激動の中、ドイツは国内のナチ化を強行した。
 その思想に忠誠を誓わなかった為に、追放された学者、官僚、教師はベルリン大学だけでも数百人にのぼると言う。

 1944(昭和19)年、肥沼博士もナチに対する宣誓書を強制された。

 しかし、自分は純潔な日本人であり、日本国籍を有するものだと言う趣旨のことを話して、ヒットラーへの宣誓を拒んだ。
 よく、外交問題にならなかったな、と感じた。

 1945(昭和20)年、ベルリンは連合軍の大空襲を受け、焼け野原となった。
 同年3月、日本大使館は、ナチスの敗北を確実と見て、在独日本人に帰国令を出した。
 ところが、肥沼博士はこれを無視し、ソ連軍が押し寄せるポーランドの国境の街、エバースパルデに向かった。
 ここでの疎開生活は、今となっては知る由もない。

 リーチェンはここから25Kmほど南に位置している。
 
 中世から栄えていた人口5000人ほどの小さな古都は、当時戦争によって市街地の9割が廃墟となっていた。

 その上、ポーランドから追放された兵士、難民、避難民で、通常の人口の数倍の人々でごった返しだった。

 下水は機能せず、衛生環境が最悪だった。

 敗戦後の飢餓がそれに加わり、チフスが蔓延して、多くの人命が奪われた。

 ソ連軍はここに伝染病医療センターを作るがそれは名ばかりで、事実、ソ連の医師はここに誰も赴任していない。
 
 そこに肥沼博士が赴任したのだ。

 赤十字から派遣された看護婦7人、調理師3人とともに献身的な医療活動を行った。

 赴任した看護婦のうち、5人はチフスで他界した。
 一緒に活動している仲間を失う痛みはいかほどだっただろうか。

 不眠不休の中、博士は施設だけでなく、近郊でチフスにかかった住人の訪問までして最善を尽くした。

 たくさんの人々が一命をとりとめた。

 こうして博士はたくさんの人の心に刻まれていった。

 そして、ついに……。

 博士自身がチフスに倒れた。

 治療の為に訪問した看護婦に

 「私のために薬は使わないで早く患者さんのもとに戻りなさい。」

 と言って追い返したそうである。

 この看護婦の胸中はいかほどだったろうか。

 1946(昭和21)年3月8日、博士は息を引きとった。

 享年38歳のと言う若さだった。

 
 戦争が終結し、ソ連軍に占領された東ドイツでは、肥沼博士の功績を公にできないまま時が流れた。

 43年後の1989(平成元)年、ベルリンの壁が崩壊。ホッネッカー大統領が失脚し東西ドイツは統一された。

 これを機に郷土史家のシュモーク博士が、肥沼信次に関する住民の証言を集め、歴史に埋もれかかった彼の功績を明らかにしていった。

 1994(平成6)年、リーチェン市議会は満場一致で肥沼信次博士の功績をたたえ、名誉市民にすることを決定した。

 日本にいた弟、肥沼栄治氏が同年この街を訪れ、大歓迎を受けた。

 ドイツの誰も知らないような小さな街の片隅で、大混乱の時代を自身に殉じて精一杯生きた兄の墓前に花を棒げた胸中は、いったいどのようなものだったのだろう。

 その時、生前兄が、日本の桜が見たいと言っていたのを聞いて、リーチェン市民から預かった寄付金で、100本の桜の苗木を送ったそうだ。

 そのうちの一本は博士のお墓に植えられ、今では毎年美しい花を咲かせるという。

 肥沼記念杯という柔道大会も毎年開催され、参加する少年少女は、試合の前に全員博士の墓前に花を棒げるそうである。

 博士の偉業は授業でも紹介され、人として生きることの意味を今に伝えている。

 戦後の激動の時代を生き抜いた東ドイツの人々が、統一後、この一人の日本人の功績を再調査し、評価する姿の中に、ドイツ人の暖かさ、歴史に対する謙虚さ、そして勤勉さを見る思いがした。

 細く小さかったリーチェンの桜も、今は見事な花を咲かせている。


 韓国に来て、20年以上の歳月がいつの間にか流れていた。

 春になると桜の花を見ながら、大阪城、京都嵐山、五稜郭、そして家の側でひっそり咲いていた桜を思い出していた。

 リーチェンに送った苗木100本のうち、半分程度は根を下ろすことができなかったそうだ。

 今咲く桜は異国に根を下ろし、生き延びたものたちだ。

 異国で生き延びることの難しさを知る私は、この桜にどこかで自分を重ねている。

 そして、川辺の冷たい風に晒され、仲間より一歩遅れて咲く停留所の桜が、今年も生きて去年よりもたくさんの花を咲かせていることが、嬉しくて嬉しくて、涙が滲んでしまうのだ。