ポール·セザンヌ(1839~1906)を知らない方はいないと思います。

 近代絵画の父、19世紀と20世紀の架け橋と言われてます。

 印象派の一員として活動していましたが、1880年頃から、伝統的な絵画の約束事にとらわれない、独自性を追求してます。

 当時のフランス、画家としての勝ち負けを決定するのは、サロンに入選するかどうかだったそうです。

 印象派という名前も、もともとはモネの
[印象·日の出]
という作品を、風刺新聞シャリヴァリが
「印象的に下手くそだ。」
と、揶揄したことが、その語源だといいます。

 しかし、その<印象>という言葉を画家たちは受け入れ、結局大衆にも好意的に受け止められていきます。

 印象派は登場当時、王侯貴族に代わって芸術家達のパトロンになっていた国家(芸術アカデミー)にも、まったく評価されませんでした。

 フランス革命(1789年〜1799年)のあと、ナポレオンが当時フランスを収めていた時代です。

 印象派の画家たちは、それでも自分たちの発表の場を求め続けます。

 次第に金融家、百貨店主、銀行家、医者、歌手の間で受け入れられ、アメリカの市場に販路ができて、大衆に受け入れられていきました。

 今でこそ、近代絵画の父と言われるセザンヌですが、サロンでは落選ばかり。

 入選は1882年の一度きりでした。

 負け組の中でも最下位です。

 それが、1895年の個展で成功を収め、

 没後の1907年にサロン·ドートンヌで開催された回顧展ではのちの世代に多大な影響を及ぼしました。

 それが近代絵画の父と言われる由縁なのでしょう。




 今回、名古屋ボストン美術館で、あるセザンヌの言葉と遭遇しました。

 本当に印象に残りました。

 「果物は自らの肖像を描いてもらうことが好きなのだ(中略)
果物はその香りをいっぱいに放ちながら私たちのもとにやってきて、自分たちがあとにしてきた野辺について、自らを養ってくれた雨について、目にしてきた日の出について、語りかけてくれるのだ。」

 これがその言葉です。

 私があとにして来た野辺。

 それは北海道の大地であり、羊蹄山を毎日見ながら育ったあの故郷であり、通常の日本の季節感とは違う、長い冬、そして桜が散ったあとに咲く梅の花(桜前線は北上が早く、梅は前線の北上が遅いので、私が小さな時は桜が先に咲くのが当たり前と思ってました。)であり、梅雨がないという気候だったり。

 そして、広義の意味では、休みのたびに足を運んだ京都のお寺、神戸の異人館、江の島の海、鎌倉の風景、倉敷美観地区、澄み切った与論の海、などでしょう。

 自らを養ってくれた雨。

 それは、両親や家族であり、友人であり、私が私を探す為に読んだたくさんの本であり、その本の著作者であり、そして、東京ブリジストン美術館で、泣きながら観たルオーの道化師の絵であり、京都堂本印象美術館で衝撃を受けながら観た、一連の抽象絵などでしょう。

 目にしてきた日の出。

 それは、日の出という当たり前のことが当たり前ではなかったことに気付かせてくれた、たくさんのこと。
 怨みや妬みや嫉妬や挫折感などから始まる、向き合うことを避けたい感情であったり、人生の正解を外側に探して彷徨った時間であり、唯一の自己表現だった文章を書けなかった30年以上の歳月であり、自分の幼さや依存心を拡大顕微鏡のように見せてくれた韓国での20年以上に渡る生活であったり。
 それらのお陰で日が拝めることがどれだけ有り難いことなのかをわかることができた自分に対する感謝が、私にとっての日の出。

 結局、私はこの印象派と言われる作家の展示室の真ん中の椅子に座って、ずっと絵を眺めていました。

 彼らは、認められなくても、何故認めてくれないんだ、と言う代わりに、発表の場を与えて欲しいと嘆願し、

 その印象派から一線を画して独自性を追求した、セザンヌはキュビズムなどに影響を与え、近代絵画の父と言われるようになり。

 私は絵を通じて、結局は作家の精神世界、その作家が数ある対象の中から作品化したいと願ったその原動力の根源と向かい合いたかったのだと、

 セザンヌの言葉は教えてくれました。

 そして、わたしはどんな香りを放つ人生を生きたいのか、そんなことも考えました。

 皆さんにとって、

 あとにしてきた野辺はなんですか?

 自らを養ってくれた雨は何ですか?

 目にしてきた日の出はなんですか?

 そしてどんな香りを放ちながら生きたいですか?

 忙しい毎日ですが、たまには自身の心に聴いてみてはいかがでしょう。