小さい頃から音楽や絵画が好きだったのかなぁ。
 
 家の経済状況がわからなくはなかったけど、勇気を出して言ってみた。

 「ピアノ習いたい!」
見事にダメ出しを食らった。

 懲りもせず、また言った。

「美大に行きたい!。」
もっともっとスゴイダメ出しを食らった。

 どうせ子どもが言ってることなんだから、もう少し傷つけない言い方もあったでしょうに。

 もちろん親は、子どもの心に傷つけるつもりはなかっただろう。

 でもあたしは傷ついちゃった。

 子どもながらに、私がやりたいことは、経済的な余裕がない、または生活が安定する職業ではないという理由で親には好意的に思ってもらえないんだ。

 こうして行動する前に諦めるのが日常になって。

 どうせあたしなんて、が、いつの間にか口ぐせになっていた。

 そんなある日の学校での宿題。

 詩を書いて来なさい。

 書いてる時、不思議な体験をした。

 どんどん、どんどん、言葉が降って来た。そして湧いて来た。

 提出したら、褒められる、褒められる。

 こんなに、褒められたことは一度もなかった。

 そのあとも、書いた文章は結構高く評価されることが多かった。

 いつの間にか、文章を書いてる時だけ、私は自由になれた。

 ところが高校進学の時に、父ともめた。

 私は精一杯反抗したつもりだった。 

 実はその学校には行きたくなかった。

 けど、最後は折れた。

 だってすぐ上の兄が大学に行っていて、その兄がお金を送ってくれと言うたびに凄いぶつぶつ言ってたのを知ってたし。

 親に反抗して、生存権を脅かされるのも嫌だし。

 何よりも、小さい頃に理由のわからないまま、父親にすごく折檻されたことがあって。

 実は父親は恐怖の対象だった。

 なので私の反抗など、反抗の内ではなかったかもしれない。

 さも、父親が喜びそうなことを面接の時に言って。

 その学校に合格してしまった。

 こうして私は夜学に通い、4年かけて高校を卒業した。

 もちろん、親元離れての寮生活は辛かった。

 でもそれ以上に辛かったのが、

 まったく文章が書けなくなったことだった。

 望まなかった毎日の日常生活で、私の心は荒廃して、いつの間にか父を憎んでいた。

 その憎悪は見事に、降るように、湧くように生まれた文章の根源を奪い去った。

 それからも、途中でペンを持とうとしたり、

 同人誌に参加したりしたが、

 長続きしなかった。

 何かどう転がったのか、韓国に来て

 想像を超えたさまざまなことにぶち当たり

 生きることを根本から考え直さないと生きていくことさえできなくなった。

 時々散歩しながら自分に聞いた。

「今もし死んだら何を一番後悔する?」

「文章を作品として残さなかったこと。」

 何年かあとにまた同じことを聞いた。

「作品を残さなかったこと。」

 また何年かあとに聞いた。

「作品を残さなかったこと。」

 もうすでに二児の母親になっていた自分。

 でも書けなかった。



 そんな私がまた書き始めた。

 韓国語で書いたエッセイが入選した。

 1回ではなく複数回。

 これって何?

 日本語じゃなくて韓国語で書いたことが、なんともう一度文章に向かうキッカケになるなんて。

 一番信じられないのは多分自分だったと思う。

 今の私の文章は降っても来なければ、湧いてもこない。

 多分、自分を治癒するために書いてるのだと思う。

 だから、何かの機会にりんの文章に触れた方が、その癒やしきれない心の傷の対症療法になってくれたらいいな、そんなことを思う。

 そして

 その傷に隠れて今まで見えなかった心のキラキラ星が、光り出すきっかけになって欲しい、そう思う。