まだまだ
その内側に
同じような 仮の姿の 『私』を
抱えているようです
前の 『マトリョーシカのようなパンドラの箱Ⅷ』
憎しみと 怒りに 溢れ続けてきたことへの気付き
を綴りました
にも関わらず
どこか そのことを 受け止めきれず
気付いたことで 目を背けてしまったのかも知れませんし
それを 正当化してしまったのかも知れません
昨今
得体の知れない 『疲れ』を 感じ続けてきました
それが何なのか
一昨日の夜 限界に達した 疲労感から また
内側を覗くことになりました
疲労感は どこから来るのか
『本当にやりたい
』ということを
』ということをやれないという
被害意識であることを しぶしぶと 認めざるを得ないうえ
今 していることが 喜びに満ちたものであったはずなのに
『嘘』であったのか? と
それはそれは 衝撃
で…
で…では なぜ 私は
気付いた後もそんなに 憎しみと怒りに 溢れ続けたか…
それは
承認欲求だったんです
何度も 意識に入りながら
どういうわけか
なぜか
そこは スルーしてきてたのです

私は ギフトとして
ものごとの 奥を感じ取る感覚や
本質を感じ取る 開かれた感覚を持たせてもらってると
10代の頃から 『自負』がありました
その 感じ取った何かを 言葉で
周囲にシェアしていくことも していたのですが
どうも
家族や 恋人といった
ごく近い人々には 受け入れられなかった…
別に それだけのことなのに
私は 受け入れられることを
渇望し続けてきてしまったんです
それが
両親からの 承認を得たいと

特に 父からの…
そこには
父を 喜ばすためではなく
『私が 私でいることが 正しいでしょ
』
』という証明が 必要だったという 類
もう一つは
父が認める成果を 挙げないと『愛されない』という
哀しみと
『愛されない』ことへの 胎児の頃からの恐怖
それらを含み
それでも 父母が生きてきた
壮絶な道と
そこで培われた彼らの 想いを理解し
だから
そこから 解放してあげたいという
思い上がった 私の想いが
複雑に絡み合った
承認欲求だったのだと…
そして
また
『やりたいことをやる』のを選べないのも
恐怖からだと…
『生活できなくなるかも…』
『心ない娘だ!』という自身がしているジャッジ
そして見つけちゃいました

『やりたいことをやる』
ここに 囚われてるのも
実は 『恐怖』なのです

クリスチャンに至るまで
スピリチュアルの世界で活躍される人々に
大きく助けて戴き
その方々に助けて戴いたことで
イエス・キリストに辿り着けたのですが
どこか
『アセンション』出来なかったらどうしよう
って…
って…全く コントです

イエス・キリストの 『selflessness』
神の意志を 体現する
十字架の上で
人間の『罪』(争いや略奪、搾取などを現象としてもたらす 恐怖や不安、『自分が』という誤ったプライドというアダムとイブの神との約束を破って人に入ってきた闇)を贖われ
それらを背負った死をも
神の御意志と全うされた
その 御姿
『やりたいことをやる』ことも
『やりたいことをやらない』ことも
主題ではなく
マザー・テレサの言葉にもあるように
神によって 置かれた場所で
その場所を与えられたことを感謝し
神によって与えられた自身へのギフトを輝かせ
その場所で 咲く





それが
神の 御意志を 体現してゆこうという
『自分』を神に明け渡して
『selflessness』
そして
望みは 『祈り』にし
神の御意志で
そのように神に用いられる時が訪れることを
信じて
日々を『咲く』

そうすることが
やはり
自分自身との調和
他者
周囲との調和
そうした美しいハーモニーを創り出していくのでしょう









