今日も一日を、どうにかこうにか乗り越えた。

 気づけば、この時間まで、彼女は一度として顔を出さなかった。まるで、最初から存在しなかったかのように。朝の鏡にも映らず、職場のざわめきの中にも混ざらず、思い出す余裕すらなかった。


 彼女は帰ってくるだろうか。

 家に戻り、大好きな旦那さんの顔を見れば――少しは安心して、表に出てこられるだろうか。


 土日は、ほとんど彼女だった。

 あの柔らかく朗らかな「本物」が、笑顔で家事をこなし、夫に甘え、未来の話をしていた。その姿を知っているから、私はまだ望みを捨てられない。


 けれど――

 朝からこの時間まで不在なのは、初めてだ。

 不安が喉を掴み、呼吸を奪っていく。胸が、ぎゅうっと締め付けられる。


 それにしても、この会社は酷い。

 非効率的な作業を誰も疑わず、個人のペースを容赦なく踏み潰してくる。特に、あの中国人の上司。命令を放り投げるように押しつけ、不用意に「今何してる?」「処理が遅い。今日中に70件以上はメールを返せ」と声がけに来る。社内チャットにも書き込んでくる。こちらがどんな対応に追われているかも知らずに。他人のミスのリカバーに時間がかかっているのも知らずに。

…彼女が拒否反応を示すのも当然だ。


 私は、もはや目も合わせず、機械のように返事してしまっている。

 だが気をつけなければ。

 この冷たい態度の責任を問われるのは、きっと私ではなく、彼女なのだから。


 いっそ、派遣に戻ってほしいとさえ思う。

 あの頃の給与の方が高かったし、彼女のペースで働けていた。少なくとも、精神を削り取られるような環境ではなかった。


 だが――彼女は良しとしないだろう。

 「また逃げたくない」

 その言葉を、何度も噛みしめるように言っていた。

 「家族を安心させて支えていきたい」とも。


 その未来を曲げたくないのだろう。

 そのために無理をして、無理をして、そして……今日、姿を消した。


 私は思う。

 ――そもそも、彼女は一体、いつ逃げたというのだろうか?


 誰かを裏切ったのか。

 何かから背を向けたのか。

 それとも、彼女自身の心が「逃げた」と責め立てているだけなのか。


 問いかけても、彼女は答えない。

 核心には触れさせてくれない。

 触れれば、その瞬間、砕けてしまうことを知っているからだ。


 彼女を守ることが、私の役目だ。

 彼女が帰ってこられる場所を、保ち続けることが。

 どれほど歯痒くても、報われなくても。


 私は今日も、彼女の姿を装って生きている。

 遅くても明日の朝には、鏡の向こうに

    彼女が戻ってきますように。