子供が二人社会人をやっていると

間接的にだが、出会う人の幅が広がる。

私も一応長年勤め人をしてきて

多くの人とは出会って来たが

日常の時間の多くを共にしてきたのは

過ごす環境が似ている、近隣在住の人達だ。

著しい文化の違い、は無かった。

 

 

 

 

 

 

子どもたちの働く環境は、日本中から集った人達に囲まれている。

なので、皆さんの<当たり前>が

それぞれ異なっていて

いちいちびっくりしたり感心したりしている。

 

 

 

 

 

息子の同僚に、浜松出身の人がいて

彼にとって柑橘類は実家から送られてくるものが普通で

関東近辺で売られているものは

まずくて買う気がしない、のだそうだ。

独り暮らしの環境に、当たり前に10キロの蜜柑が届き

時季になると同僚たちは、みかんの恩恵に預かることになる。

「一人で10キロは食えないもん」

と、言いつつ、時季にはみかんは確実に10キロやってくる。

みかんは10キロ単位で扱って普通、という観念が

その人の家にはあるようだ。

良い環境にあることが羨ましい。

 

 

 

 

 

 

本日は八十八夜です、と教えて下さったブロ友さんがいて

ああ、そうか、と昼行燈のように思った。

頭の調子が鈍い事もあり、忘れていた。

もう一つは、自分の環境に製茶業がないので

その言葉は身近ではないこともある、と言い訳する。

 

 

 

 

 

 

先に書いた、みかんの同僚さんは、静岡の人間である。

「お茶は静岡のモノだけが、お茶です」

と、言い切るそうだ。

「八女とか宇治とか、関東なら狭山、茶どころは多くある」

と、息子が反論したら

「他のものはお茶じゃない。お茶と呼べるのは静岡茶だけだ」

と言い切り、他の意見は受け入れなかったそうだ。

性格的には、穏かな方で

人とうまくやっているそうなのに

お茶に関しては、一歩も譲らなかった、と

息子は苦笑していた。

 

 

 

 

 

郷土愛が強いのだろう、そして郷土を誇りにしているのだろう。

素晴らしい事だ。

 

 

 

 

 

八十八夜とは、立春から数えて88日目のこと。

 🎵夏も近づく 八十八夜🎵

と、「茶摘み」の歌にもあるこの日は 夏への入り口ともとれるイメージを持つが

霜が下りなくなる辺りですよ、という意味であり

農作業にも留意、せっかく植えた農作物も

遅霜でやられるかもしれません、という<寒さ>への

警告の意味を持つ 発展的 より

後進的 意味合いを持つ日とも言える。

当地は、今年は寒さがなかなか去らず

思い付きで植えたネギは、芽吹いた時に寒気が入り

青息吐息になっている。

 

 

 

 

今度山の家に行ったら、静岡県まで足を延ばして

お茶買いに行こうかな。