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『わたし』解体新書

説明のできない、『わたし』の世界。

今まで、『自分がおかしい』前提で自分探しをしてきたけど
世界の中の、ひとりの人間・・・の目線から。
わたしだけの目線で、わたしの世界を見つめ直すブログ。

今まで生きてきて、子どもの頃からずっと

なんとなく

当たり前のように


『居場所』を探していた。


存在している限り、どんな形にしろ

『居場所』はあるのに


なかなかそれを『わたしの居場所』

と感じることは難しかった。




家族、とか

友達、とか


誰かにとっての、なんらかの意味のある存在。


単なるクラスメイトでも

先生と生徒でも

そこには『存在』がある。



そして、その『存在』にはきっと意味がある。

その存在、その関係性、その奥深くに感じる何か

それらに意味があるからこそ


その『居場所』は『わたしの居場所』たりうるのだ。



…………そんな感じで


すべてのものには意味がある。

そんな感覚で生きてきた。



このときの『意味』の意味すら

ニュアンス的には、わたし独特のものなのだけど


なんだろう。


固執するような『意味』ではなくて

『ただそうである』みたいな感じ。



何にもなく、ただ流れていく…はないんだ。



そんな感じ。



水は、低いところから、高いところへは流れない。



そんな感じ。




ただ、そうなのだけど


ただ、漠然と存在していると

この世界では、淋しい。



そこに、人がいるから


人とかかわると、『わたし』は刺激される。




やがて、

家庭に、学校に、社会に、居場所を見いだせなかったとき

生き地獄という世界に身を置いて


鬱だ、人格障害だと、名前をもらった。


少し、『自分』がわかったような気がした。

でも

家に居場所がなくて、病院に入院してみても

そこにも、わたしのような人はいなくて。

その病名は、『わたし』ではなかった。



そののち


宗教に片足をつっこんでみたり

スピリチュアルにはまったり

ヒーリングの世界を覗いたり


心理学を学んでみたり

哲学をむさぼってみたり



瞬間的に熱中しては、ハッと我にかえって

その場を離れる。



そんなことを繰り返してきた。



どんな組織も

どんな教えも


従順で、熱心であれば

そこにいることを歓迎されていた。



何か、元になる思想や存在があって

上があって、下があって、その他があった。



どれが正しいとか、

どれが間違ってるとかでもない。


自分の信じるものを信じ

自分の信じる道を、真摯に歩く姿は、まばゆくもあった。


ただ

わたしは、そのように在れなかった。



枠にはまりたい。

居場所が欲しいのに


居続けられない。


感覚の近い人

世界観の近い人の

そばにいたい。


分かち合いたいのに


その間に

見えない、何かがあるようで。



ハッと我にかえる。



その後


「カサンドラ症候群ではないか」と

アスペルガー症候群などについて情報収集し


のちに


「ギフテッドじゃないの?」と言われて

さらに情報を集めた。



ギフテッドについて

諸説もろもろありそうだけど

Wikipediaに書いてある内容は

読んでいて、

自分の「取扱説明書」のような気持ちになった。


少し、笑って

少し、うれしかった。



だけど

やっぱり、ギフテッドでもないな、と思う。




仮に、ギフテッドでもいい。


「自分は何者なんだろう」と

思ってた自分と

同じような、似たような人もいるんだな

と知ることもできた。


けど、

仮にギフテッドでも

そういう固有名詞をつけてもらっても


わたし自身は、何も変わらない。




わたしは、変わってると思って生きてきた。

家族からも、おかしい、おかしいと言われてきた。


子どもの頃から

自分と周囲の違いを感じて生きてきた。



わたしが、おかしいんだろう

わたしは、病気なんだろうと思っていた。


社会に出て、家族に打ちのめされて

死にたいと思ったら


『鬱』だと言われた。

薬を飲んで、セルフコントロールできなくなったら

『人格障害』だと言われた。



まずはじめに、世界があって、社会があった。




違和感だらけのこの世界。

子どもの頃からそんな想いで生きてきた。



自分自身の内側の世界を思い出す。


その解体新書。