何が貴方なのでしょうか?
何が貴方なのでしょうか?
どこからどこまでが貴方なのでしょうか?
どういう訳か「自分」と呼んでいるもの、肌に閉じ込められた意識が、頭の中の
どこかに位置していると感じています。
場合によっては、心臓かマニプーラ・チャクラあたりに位置していると考えています。
それとも脳の中にありますかね? 脳のどの部分が自分なのでしょう?前頭葉
なのか、脳下垂体なのか? それと脳全部が自分なのでしょうか?
脳の一部を移植したら、移植先が貴方になりますか?
それは、自分がどこにあるかを吟味したら出て来る問題です。
数年前に、若い女の子と話した時に、髪の毛を大事にしていて、髪の毛は自分
自身だと思い込んでいたのですが、これは笑い話しではありません。
我々もあまり変わらないのです。
もっと合理的な回答がありますか?
しかし、どんな実験をしても、どこの空間に自分が位置しているのかを発見できま
せん。 ヴェーダ科学やユダヤのカバラなんかでも面白い洞察がなされています。
私たちの意識の中心は、全ての時間と空間の中心であるというのです。
少しだけ、貴方の意識が実際に貴方が座っているところに位置していると仮定し
ましょう。 物理学者達がそうであると保証しているように、宇宙が無限の広がりを
もっていたら、無限は貴方がいるところから、あらゆる方向に広がっているのです。
それは、同時にどこでもあり、どこにも居ません。
貴方は宇宙空間の中心で、私も同じように宇宙の中心なのです。
大分にいようと長崎にいようと横浜に居ても宇宙の中心で、貴方はどこにでも居
て、何処にも居ないのです。 空間の中の「位置」というのは、認識の問題で、
月が近くにあり、太陽は遠くにあるというのは、自分から見た地点からのみの問題
で、実際には上下、左右、東西南北も全て便宜上の見方を指しているだけの
ポイントを表していますが、実際には無い問題なのです。
宇宙の中の全ての位置は、非局在的なものなのです。
つまり、私たちにはそれがここにある。 とか、そこにあるとか限定できないのです。
信じたいもの
「私はだれ?」
「私はどこから来たのだろう?」
「自分の人生の意味と目的は何?」
「自分が死んだらどこに行くのだろう?」
インド・チベット仏教ではこの問いに対する精緻な答えを用意していますが、そういった権威ある教えがあるけれども、この種の不安を覆い去るにはにはリアリティが少ないのが実情です。 例えば『死者の書』に書かれている死後のプロセスは、長期の時間を要しますが体験可能なものです。
しかし、そういった体験は自己催眠であるとか、思い込みでイリュージョンの世界だと言えば、そうかも知れないという物理科学の思い込みの方が容易く勝ってしまいます。 だから私たちは信じたい、と思ってそれを信じることにしがみ付いてしまうことがあります。
逆に、そういう世界は無いと信じたい人も同じように、しがみ付きます。
その方が安心できるんですね。 自分の思い込みで世界を把握してますから、自分が認知出来ないことがあっては困るのです。
科学は私たちに、自然の法則がどのように機能しているかの知識を沢山与えてくれています。電気の力、重力など、私たちは信じる事を必要とせずに経験できるのです。
ヴィパッサナー等の観照する視点は、様々な視点を提供してくれます。
小乗仏教で実践の主要なテーマである「観」の修行は、大乗仏教でも積極的に智慧と結び付けられ、金剛乗では、更なる深みを見せるようになります。
止・観も先があるのです。
止(シャマタ、止、シネー、ネパ)といのは、寂静の境地に留まる修行ですが、これは、寂静の状態を通じて「空」を発見する作業になります。
しかし、この「空」の発見をすることで、覚醒の境地を悟る事に役にたちます。
つまり、「空」を発見するだけでは終わりではないのです。
それはあくまで体験なのです。
ネパの後は、観(ヴィパッサナー、ラントン、ミョーワ)という洞察の状態があります。顕教のシステムの中では寂静の境地に入ったら、無限に、その寂静ないし空の状態に留まるようにします。
このシューニャターの状態に長く留まっていると、洞察が湧き起こってきます。
そして、明晰な意識が出てきて悟りが得られる訳ですが、密教やゾクチェンのやり方では、このやり方は受動的と捉え、もっと能動的に観の修行をやらねばならないと考えます。
空というのは、一つの経験に過ぎないので、自分自身のエネルギー(動きや思考)と関わって行きます。 これをミョーワ(不動)という状態で、積極的に動きと統合していきます。 そしてニャムニーの状態は二元を超えていくのですが、動きと寂静とを不二(統合)することでニャムニーとい覚醒の意識に入ります。 その後、ルンドップという最初から完成された状態の悟りにの三昧(サマディ)の状態があるのですが、脱線が過ぎましたので、元に戻します。
このような状態になれば、信じる必要もないのですが、それまでは思考や混乱に惑わされ、神経症的な反応になってしまいます。
基本的には、「私はだれ?」という問いには、自分の名前とか、性別、国籍、社会的な立場を答えて、自分を表したりしますが、それは表面的なセルフイメージ
を言うだけで、「これは、肉と骨が入った袋です」と答えても同じです。
何が貴方なのでしょうか?
どこからどこまでが貴方なのでしょうか?
私は誰? 何が欲いの?
理由のある幸せ・・・
私たちは、自分が何者であるのか?
また自分とは何なのか?
という問いを持っている。
多くの人は、自分の職業、自分の好み、自分のポリシー、自分の名前、自分の住んでいる地域等を答えて、また外見上の特徴を語る事で、自分を指し示す。
そう表面上の形容で自分を表す事になると信じている。
そして自分が何を求めているのか?
何が欲しいのか?
あなたは?
しかし、なぜあなたはそれを欲しいの?
それは喜ばしいことなの?
理由は、それがあると幸せになるような気がしているのです。
お金? 地位? 名誉? 住い? 車? 恋人?
それがあると本当に幸せになるの?
理由のある幸せは、形を変えた不幸であると言われます。
それらは吹き抜ける風のようにやってきては去っていきます。
そしてその幸せが私たちから去っていく時は、やけ酒、やけ食い、その他様々な中毒的な行動に陥り易いのです。 それは喜びを見出したいと無意識が望み、中毒的な行動に快楽を求めようとするからなのです。
幸せが外的な要因にあると思っている内は、真の喜ばしい意識状態にはなりません。
私たちが幸せに感じる時、それは自分の内側にある喜びの素に繋がっている時に根源的な喜びを感じるのです。 幸せは私たちのなかに存在している意識状態なのです。
外にあるもので自分を満たそうとしても、取り上げられてしまいます。
個人的なことですが、僕は彼女と居る時は幸せだった。
これ以上は要らないと思えた程、幸せを感じていた。
しかし、彼女が居なくなったと同時にやってきた苦悩はどうだろう!
全てを引き剥がされたような苦痛にさいなまれた。
そういつの間にか、彼女の存在に依存し、自分の内なる輝きを失ってしまっていた。
ほんと最近やっと、その傷は癒えて来たので、客観的に見れるようになったが・・・
あのままじゃ駄目だったなぁと、如実に解る。
自分が幸せになる事から離れていってしまっていた。
私たちは宇宙のパワーと言ってもいいような生命の根源的な繋がりを持っている。
全存在は繋がっていて、切り離すことは出来ないのに、盲目の恋にハマって、個人の境界線を作り出そうとして、混乱のループにはまり込んでしまっていた。
