「人間どうしは逢ったときが正月だ」     (山本周五郎)




 公安部の諸君、新年、明けましておめでとう!



人間、逢ったときが正月だ、とはよく言ったものだな。ネットでは毎日会っているわけだが、そ

うすると、我々は毎日が正月だと言うことだ。




正月、早々、みみっちいことをするじゃないか。


そんなことをしていると、そのうち馬脚を現すぞ。


警告しておく、そんなことはやめろ。





↑ マイページの部分が出てこない。





でも、一曲、君のために曲をプレゼントしてあげよう・・・・・


何度も聞いて、君がお母さんから受けた恩を思い出してみなさい。


悲しくはないか?


恥ずかしくはないか?


まともな男になれ。



ペタしてね
「私を傷つけるものは、私自身である」    (ベルナール)



 ちょっとした悪意、これくらい大したことという悪意。実はこれが本人を深く傷つけ、魂を腐

敗させている。一番傷ついているのは、実は悪意を抱いた人間の魂なのだ。


 何者かが、それをじっと見つめている。



「天知る、地知る、我知る」








このような気持ちにならねば・・・・・。



組織に守られて悪事を行うものは、その組織によって葬りさられる。




ペタしてね
「いかなる虚偽も、そのためにさらに他の虚偽を捏造することなしには主張できない」

(レッシング)


虚偽は、虚偽を生み出す。果てしない虚偽の連鎖。最初の虚偽は大したものでなかったにせよ。

だから、最初に虚偽を生み出さないことに尽きるのだ。



「虚偽は、みずから虚偽の実態を暴いてしまう。嘘つきが、自分は絶対に嘘はつかないと吐くよ

うに」








 アメブロのマイページを開けないようにする操作をやめよ。いつかは必ず正体がばれるもの

だ。なぜなら自分で暴露し始めるからだ。それが虚偽というものの本性なのだ。



 それにしても、CIAのやっていることは、ひどいね。これが民主主義国家で起こることなの

かね。安倍政権の近い未来にも起こりうる可能性はあるのではないだろうか?事実上の拷問の「

強化尋問技術」だってさ。



尋問の名目は、「テロ情報取得」である。これが特定秘密に指定されていたら、一体どういう

ことになるだろうか? 裁判所は一体裁けるのか?戦時中の暗黒時代の再来が危惧される。





ペタしてね
「人間のうちの最高の賢者でさえも、金を取りに来る者よりは、金を持って来る者のほうを歓迎

する」  (リヒテンベルク)



イエスはどうっだたろうか?ブッダはどうだったろうか?孔子は?老子は?


金を持ってくるものを歓迎しただろうか?彼らは何かを与えられることを欲したか?その何かは

物か、あるいは目に見えないものか?


すでに悟りを開いた者に金とはどういう意味を持つものだろう?




「金は鋳造された自由である」  (ドストエフスキー)


これは鋭い言葉だ。最高の賢者には鋳造された自由はいらない。金と自由が結びつくところに真

の自由はない。わずかに自由の範囲が広がったように見えるだけだ。実際は不自由の中の偽りの

自由に囚われているのだ。しかし、反面、まったく金のない自由というものに耐えられる者は少

ない。




ペタしてね
「大事の思案は軽くすべし」



葉隠より。


「我々は生き、生を享楽する側面では常に理論を持ち、判断を下して行かなければならない。も

し、それをゆるがせにすれば、生活の体系は崩れ、大思想さえ侵されてしまうことになる」

(三島由紀夫)



確かに・・・・・。ラーメンを食べる時に、チャーシューは先に食べるべきか、最後に食べるべ

きか?これは趣味の問題か、思想の問題か。味噌汁を右に置き、ご飯を左に置くのは、明らかに

思想だと言える。



 長い準備があればそこその、即時の決断。連続的な時間の中のタクト。




 愛に付随している内気さは、始原的なるもの、太初的なるものに常に見受けられる内気さに他ならな


い。恋人たちは、太初のものから世間の日常の機械的営みの中へ捲き込まれることを、怖じ恐れるので


ある。


 一人の人間が愛によって経験しうる様々な転生はすべて、この始原の像が彼らの顔を透してかがやい


ているのだ。だからまた彼らの顔はふだんよりも一層美しくなるのである。相愛の人たちの顔は浮かび


漂っているようである。始原の像の上に浮かび漂っているようである。



 相愛の人たちがおのずから帯びている神秘性は、始原の像が近くにあることに由来しているのだ。       


愛の中に始原根源的なものの含まれていることが多ければ多いほど、その愛は堅固で、そして持続的な


ものになる。もっとも相愛の人たちは不安である。しかしそれも、世間的現象的形態のなかで自己を実現


することを怖じ恐れる始原の像の不安が彼らの内部に宿っているからに他ならない。外部世界の中で、


現象形態の中で、始原の像はおののき始めるのである。

 


                       (マックス・ピカート  「沈黙の世界」   p.106 )





 ニューヨークであれ、ブエンスアイレスであれ、ラサであれ、向かい合う若い男女の間には、内気な何か


がある。混乱した世界の中でも、愛し合うとき、そこに何か透明な、根源的なものが漂う。


それはヤンキーのような男の子と女の子でも同じだ。  


二人だけでいたい。二人だけの内部に閉ざされていたい。



 そこに始原的なものが支配していれば、二人が現実社会と関わっていなくても、それは世界を正しくす


るのだ。世界は秩序の方向へと舵を切るのだ。

夏祭りが近い。遠くで太鼓が鳴っている。入道雲が愚かな我々の頭上で


  そ知らぬ顔で新しい交わりを求めて彷徨っている


      どの雲が人間のことなんかに関心があるのだろう!


          どの雲が原発のことなんかに関心があるのだろう!



美しい無関心で雲の女たちはゆっくりと交わる


   雲の女たちは全く無関心に恍惚としている


     土偶だの土器などはもう十分見たし


        ちょこまかした人間どもの悩みなど聞き飽きた


          くだらねえぜ!まったく!


             何をうじゃうじゃ考えてるんだよ!

                

雲はあっという間に形を変えちまうんだよ! 





HAMLET寅のオニの駅にも停まっちゃうぞブログ


 


 このあたりの祭りの笛は、葬送の音楽だって、裸のおっさんが言ってたな


 だから笛がことに難しいのだそうだ


 俺はみんながあんまり楽しそうだと、ますます闇を見つめたくなった


 生命の高まりは同時に深い闇を伴う


 そんな暗がりのなかでいいから、手をつないで歩こう


 同行二人


         外部へ


                闇の外へ


光の方角へ

  

               


             


Psalm




   誰でもないものが僕らをふたたび土と粘土からこねて作る


   誰でもないものが僕らの塵に呪文を唱える


   誰でもないものが



   たたえられてあれ、誰でもないものよ


   あなたのために


   僕らは花咲くことを願う


   あなたに向けて



   僕らはこれまで


   ひとつの無だった   今も無であり


   これからも無のままだろう   花咲きながら


   無の誰でもないものの薔薇



   魂の透明さを持つ花柱


   天の荒涼さを持つ花粉


   茨の上方で   おお  茨の上方で


   僕らが歌った深紅の言葉のために


   紅の花冠




                                         パウル・ツェラン



アントナン・アルトーの「ヘリオバルガス」の中に数に対するアルトーの思考が述べらている。


  

     数とはすなわち振動の度合いなのである。



 そして仮に12という数が「自然」の観念を完全な展開点、十二分の成熟度に至らしめるとすれば、


それはその数が4で表わされる事物のサイクル全体を三つ含んでいるためである。


4は抽象における完了の数字、あるいは円内の十字を表わす数字であり、また存在するものがすべて通


らなければいけない磁気的振動の四点、あるいは四つの結節を示す数字である。


また3は、4を含む円を三度吸収し、それを「三つ組」にして受け持つあの三角形のことである。


この「三つ組」こそは最初の単位、唯一者から分離した再の最初のイメージなのである。





 ここに述べられているのは4と3との関係だ。4は抽象の完了であり、円内の十字であるとはどういうこ 


となのか?そしてすべての存在が通らなければいけない磁気的振動、結節とは何だろう?


  3かける4は12。


  ただその3は最初の唯一者から二つが分離した時のイメージであり、それこそがまず最初の単位だと


いう。その3は「三つ組み」の形によって、4を支えているということだろうか?卑近な言い方をすれば、三


角関係の男女が四組いて、その四組で一段上の秩序を形作っているという イメージだろうか・・・・・・


  

3というのが最初の唯一者から分離したものだといのは、わが国最初の歴史書、「古事記」の冒頭を思い


出させる。


  

 「天地初めて發けし時、高天の原に成れる神は、天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣日


神。この三柱の神は、みな独神と成りまして、身を隠したまひき」




天地初発の時、原初の混沌とした空間に現れたのはまず天之御中主の神であった。続いて高御産巣の


神と神産巣神という産霊の神々が出現したのだ。ここでの天之御中主の役割は、国文学者の神野志隆


光によると「アメの統治者として、高天原の根源であり、これを頂点とすることによってムスヒの神々も働き


うる」のだと言う。




高天原という原初の祭祀空間を秩序付ける天之御中主神を頂点とする三角形が、この世の始まりの形な


のだ。


まさにアルトーが言うように、唯一者から分離した二つが三角形を形作っているのだ。


しかもわが国における天之御中主というのは中空なのだ。


中空から、エネルギーが自己展開していき、つぎつぎに神が成っていく。


そのムスヒのエネルギーは、天地初発から、今日の我々まで持続的に働き続けている。



わがなでしこジャパンが勝ったのも当然である。


澤のつま先にはムスヒのエネルギーが宿っていたのだから・・・・・・




アルトーは古事記も読むべきだったと思う。







久しぶりにパソコンが攻撃され、バッファローのルーターのアタックブロックで防御。


おお、来たか!


久しぶりだな、来ると思ってたぜ!と喜んでいたら、続けざまに五回の無言電話。


今、我が家は母も病気だし、犬も死にそうなんだよ。


お前らみたいな頭のいかれたやつらにかまっている暇ないんだよ!


この暇人ども!


このウスラボケ!!




   鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津の その津の上に 率ひて 娘子壮士の 行き集い


   かがふ嬥歌に 人妻に 我も交はらむ 我が妻に 人も言問へ この山を うしはく神の


   昔より 禁めぬ行事ぞ めぐしなも見そ 事も咎むな



  (鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津の その津の上に 若い男女が 誘い集まる嬥歌で 人妻と


   私も交わろう 我が妻に 人も言い寄れ この山を 治めている神が 昔から禁じていない行事なの


今日だけは ふびんとは思わないでくれ)




万葉集の中の「筑波嶺に登りて嬥歌会を為す日に作る歌」から。


実におおらかである。


カガヒつまり歌垣は、男女が歌をかけあって交合し、結婚の相手を見つける行事である。


なでしこジャパンの強さは、このような古代日本か綿々と受け継がれてきたエネルギーである。



  

 筑波嶺に 庵りて 妻なしに 我が寝む夜は 早やも 明けぬかも