わたしと母
そして
わたしと息子
※この記事は
私にとっては普通だけれど
誰かにとっては不快かもしれないので
苦手だと判断した場合は
読むのをやめて頂けると幸いです
母は17歳で私を妊娠した
自分は子供が好きだから
好きな人の子供だし育てられる
そう言い張り家を飛び出したそう
でも母は
家事が全く出来ません
玉ねぎの皮は
どこまでむけばいいかわかりません
洗濯機の使い方、よく知りません
掃除機
当然、持ったこともありません
何も出来ない母が
私を育てられるはずもなく
他責思考が強いので
育てられない自分が悪い訳ではなく
父親に似た私が悪い
助けてくれない環境が悪い
私が20歳をこえた頃も
そんな言い訳を沢山していました
幼少期
学校の給食を持って帰っていました
パンの日は
持って帰りやすくて好きでした
にわとりを飼っているおじさんが
毎日卵をわけてくれました
でも、焼き方を知らない私は
生で飲んでいました
貧乏で可哀想だと
友達がふりかけをくれました
でも、かけるお米がないので
お菓子の様に食べました
私服登校だった小学校
毎日同じクマの服を着ていました
でも、ウチには乾燥機があったので
洗濯は毎日出来ました
祖母がしてくれた修学旅行の積立を
母が全て使いました
修学旅行には行けなくなりました
祖父は地主で控えめに言って
お金持ちだった我が家
だけれど、母が借金を繰り返し
おまけに家を担保に入れ
私が小学生になる頃には貧乏でした
それでも私は母が好きでした
1ヶ月帰ってこない時もあったので
帰ってくると嬉しくて
でも、怒られるのが怖かったので
話しかけられませんでした
中学生になり
バイトをはじめました
祖母に毎月お金を渡しました
時々、帰ってくる母も
お金と手を広げてくるので渡しました
お金を渡すと少し笑うので
嬉しかったのを今でも覚えています
自分で貯めたお金で
修学旅行に行けると思っていたのに
学校で問題が起きました
私は全く関係ありませんでした
でも、疑われてしまいました
謹慎になり
修学旅行には行けませんでした
進学したかったけれど
受験代一万円が
払えないと祖母に言われました
受験は諦めました
17才になる頃
家を追い出されたので
一人暮らしをはじめました
遊ぶお金が欲しかったので
仕事を3つしました
母は時々、お金と連絡してきました
会えることが嬉しいから
いつか
ありがとうが聞けるかもしれないから
私はすぐに約束して会いました
20歳になる頃
母は私を連帯保証人にしていました
私は借金が出来ました
仕方がないのでキャバクラで働いて
お金を稼ぎました
収入が上がった私への
お金の催促は凄く増えていきました
次第に払うのが嫌になり
時々、無視をするようになりました
家を引っ越し
母には住所を教えませんでした
ある日、仕事から帰ると
家がぐちゃぐちゃになっていました
慌てていると母から
通帳もらうねと連絡がありました
母は不動産に
娘と連絡が取れないからと
住所を聞いていました
700万円持っていかれました
訴えるか
警察に通報するしかないと言われ
自分の親を訴える事は出来ず
泣き寝入りしました
それからもお金の催促は続きました
数千万になった総額は
母の元できっと消えています
それでも私は母が好きでした
養子の母は
血のつながりはあなたしかいない
いつもそう言っていて
私にとってもそうなので
親子だから、血のつながりがあるから
ずっと縛られてきました
いろんな人に叱ってもらい
やっと母と離れる決心をしたとき
母にもう面倒見ない
そう伝えると
産んであげたのに親不孝
やっぱりあんたみたいな娘は失敗
でも、どうせ嘘だから
その言葉が返ってきました
でも、私は母の言う通り
うまく決別出来ずにいました
ただ夫と結婚を決めた頃
本当に決別しなければならない
そう思いました
自営業をしているので
迷惑をかけたくなかったのもあるし
不妊治療を進めていたから
もしも子供が出来た時
会わせたくないな、と思った
それからもう一度
母と話し合う事にしたのだけれど
今度は母の再婚相手が出てきて
どうやら祖母は
私に少し遺産を残しているそうで
その遺言が見つからないらしい
だから私に
遺産放棄の話しを持ちかけてきた
祖母の介護施設代を払ったのは
私なのですが
その頃は既に認知だったので
きっともっと前から
遺言を用意していたのでしょう
私は放棄する事を承諾すると共に
母の面倒を見ない
と言う交換条件を出す事にした
まんまと交換条件をのんだ2人
私は本当に解放された
結婚をし、新しい携帯を買った
それから
5年が経とうとしている
なのに私はまだ
母と繋がっている携帯を解約出来ずに
最低料金を払い続けている
どんな扱いをされても
嫌いになることが出来なかった母
だからこそ私は
息子に本気で向き合っていたくて
私が息子に与える影響は
いいものばかりであって欲しい
そう願いながらも
母のようにならないか
そんな不安と日々戦っている
子供を産むと親の有り難みがわかる
よくそう聞くけれど
産んでから
より許してはいけない相手だと
確信したから
お母さんに
抱いて欲しいと思わない?
そう聞かれたことがあったが
会わせてはいけない
心からそう思っている自分がいる
私はよく
どうしてそんなに余裕があるのか
聞かれる事がある
おおまかには
年齢だと思っているのだけれど
きっと私のような思いをする子供が
1人でも減って欲しいと
本気で思っているからだと思う
叱っているから過保護ではない
そう思っている
過干渉な親だっているし
自立させたいからと
放任すぎてしまう親だっている
親の与える責任は重大だ
どんなにバカにされようが
私はそれを訴え続ける
私は幼少期も思春期も
親が酷いとなんて思っていなかった
それが当たり前だから
何が可哀想なのかわからなかった
勝手に
哀れに思われるのが嫌いだった
でも、今は少しだけわかる
愛されるべくして産まれたはずの
命が無駄にされていく
そんな世の中だから
私のような子供は
可哀想でなくちゃならないのだと
でも、世の中に対して
私の出来ることなんて何もない
だから今日も
ただただ、息子を愛そう
1秒でも長く笑顔に出来るように
まず私が笑っていよう
1秒でも長く安心出来るように
泣いたら抱きしめよう
1秒でも長く眠れるように
環境を整えよう
清潔なお風呂に入って
綺麗なマットの上で遊ぼう
美味しいご飯を食べて
たくさん遊ぼう
何着もある中から選んだ服を着て
大好きな絵本を読もう
私は証明したいんだ
7割以上が繰り返される
虐待の連鎖が
止められると言うことを
蛙の子は蛙ではないと言うことを
私が育てた子供がどうなるか見たい
そう言ってくれる夫と友達
素敵な答えが見せられるように
今日も全力で愛した
心のどこかで
母には幸せに生きていて欲しい
そう願いながら
私は自分の幸せを見つめている
私の持っていない自己肯定感や
安心して眠れる日々を
沢山プレゼントできるように
まず私が幸せでいよう
私の人生経験は
あなたを幸せにするものだったと
そう思えば
この人生で良かったと言える
その答えはまだまだ出ないけれど
あなたが幸せに生きられるのなら
私はもう一度
この人生でもいいと思えるから
後悔のないように
明日も明後日も向き合っていくね