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「前頭側頭葉変性症の夫と私」ひまわり日記

野球大好き。MLB、欧州サッカーをはじめ、スポーツ全部好きです!夫の難病(前頭側頭葉変性症)に悩み苦しみつつ、息子の心配事にヤキモキしつつも、明るく楽しく暮らしていきたいと思っています。

なかなか筆が進まず、遅くなりましたが、夫の病歴を書こうとおもいます。同じ病気の方の少しでも参考になれば幸いです。ただ、この病気は人によって症状が違い、病名も確定されるまでが長く、原因も不明で治療法がないのが現状です。先も見えず不安と思いますが、一例として見てください。

 

41歳 うつ病で心療内科を受診(障害年金の初診日となります)。1年休職。3か月の入院。通院治療をしつつ、リワークプログラムに参加。軽快して仕事に復帰。その後は、うつ病を克服して順調。投薬治療は続ける。

 

49歳 双極性障害を発症(前頭側頭葉変性症の発症と推測されています)。極端な躁うつ状態となる。心療内科を他の医院に替え、通院治療をする。仕事も困難になる。

 

53歳 歩きにくい、食べられない、水でもむせる状態になり、うつ病の症状と見られ、精神科の病院に受診、入院する。入院3か月めに、食べられないため栄養がとれず、点滴のみとなり衰弱。総合病院に救急搬送され1か月入院。確定診断ではないが、ALS(筋萎縮性側索硬化症 三山型)の疑いとされる。入院中のリハビリで流動食が摂れるようになり、先の精神科の病院に戻り、8カ月入院を継続。

 

54歳 休職期間満了により退職。ほぼ通常の食事を摂れるようになり、体調も安定する。精神科の病院を退院し、自宅療養になる。神経内科医院に月に1度通院する。1年ほどは家で寝たり起きたりの生活。意欲的に何かするということもなく、無気力。

 

55歳 異常行動がみられる。水をガブ飲みするようになり、低ナトリウム血症となる。国立病院精神科に3か月入院。前頭葉の萎縮がみられ、「前頭側頭葉変性症(前頭側頭型認知症)」との確定診断がでる。

退院後は自宅にて療養。デイサービス、訪問診療を利用。要介護4。

 

56歳 半年ほど自宅療養をしていたが、外に出たがるなどの行動により、在宅介護が困難。介護付き有料老人ホームに入居する。行動は落ち着いていくが、意欲がなくベッドに横になることが多い生活となる。数年後には心身ともに安定し、要介護3となる。徐々に運動量が減り、食事量も減る。

 

61歳 新型コロナウイルスに罹患。軽症。総合病院に10日間入院。

 

62歳 転倒のため、救急搬送され総合病院に入院。両大腿骨頚部内側骨折。両側人工骨置換手術を受ける。退院して介護ホームに戻ったその日に、血中酸素が70台のため、救急搬送で入院。肺炎と診断される。回復するが、嚥下力が弱く食事が摂れないため胃瘻を造設。夜間の痰の吸引も必要となる。計2か月入院。

 

この入院以降、自力で歩行、排泄、電話ができなくなる。会話もほとんどなくなる。

 

退院後、夜間の痰の吸引もできる、24時間看護師の居る介護付き有料老人ホームに転居する。要介護4になる。入居して半月後に誤嚥性肺炎のため、先の総合病院に再入院。12日間。回復する。その後5カ月ほどは順調であった。

 

63歳 熱が38度、酸素が80から90台前半のため救急搬送。大学病院に入院。肺炎の治療。貧血。肝酵素の数値が悪い。栄養不足であるが、リフィーディング症候群もある。抗生剤、輸血、アルブミンの点滴を行う。一時回復に向かうが、栄養剤を開始すると、肺炎を再発。入院19日目で永眠。

 

こう書いていくと、病名が確定する前は、暗中模索でつらかったなあと思います。のべ入院期間もすごい日数だし、救急搬送も何回もされています。夫も大変だったけど、私もよくやっていけたなあと感慨深いです。

 

前回、ブログを終了すると言いましたが、色々思い出すこともあって、私自身のこれからのことも書いていこうと思います。

ではまた。

 

 

 

 

 

 

夫が旅立ってから1カ月半ほどたちました。

63歳と2カ月の命でした。ここ十数年は病気との闘いでした。

向上心の強い夫だったので、もっと仕事や社会で活躍したかっただろうに、思い残すことは多かったと思います。

 

私も、あのときこうしていればこうならなかったかもしれないと、数々の人生の節目で思い返すことも多く、色々な考えがまとまらないまま日々が過ぎていく感じです。

 

しかし、亡くなった後にすることが山のようにあり、それを一つ一つ丁寧にやっていくことで、心が紛れていくような気がします。

 

もう夫の存在がこの世にないということが不思議で、今一緒にいないだけだという感覚です。

 

これから私はどんなふうに生きていこうか、考えるのはこれからです。

四十九日を迎えて、夫のお骨をお墓に容れたら一段落なのかもしれません。

 

次回、夫の病歴をまとめたものを書いてこのブログを終えようと思います。

夫は、この夜を越えて朝を迎えることができました。目をぱっちりと大きく開けて驚いたような表情をしていました。暖房が止まってしまったせいもあり、体が冷えていました。看護師さんが、電気毛布を持ってきて、体を温めてくれました。体温を測ろうとしても、体温計をうまく挟めるところがなく苦労されていました。

 

看護師長さんが来て、あいさつしてくれました。

「よく眠れましたか?何か食べてくださいね。(簡易ベッドに)昼間でも疲れたら横になっていいんですよ」優しい言葉をかけてくれました。

 

当直の先生が来て、診てくれました。「時々こんなふうに、半目になって眠ってしまうことがあるのですが、大丈夫ですか?」と私が聞くと、「ちょっとこちらへ」と言われて廊下に出て話をしました。

 

先生「本人の前では話しにくいので。ときどき呼吸が止まっています。呼吸が弱く、とても危ない状態です。もしかしたら今日深く眠ってしまい、そのままということもあるかもしれません。これを乗り越える可能性はゼロではありませんが、今の状態はよくないです」

 

息子にラインでなるべく早く来るように伝え、10時ごろには病室に来てくれました。

 

主治医の先生が診に来てくれました。

「顔色がいいですね。明日いろいろ検査をしようと思います」

さっきの先生の感じと違うなぁと思いながらも、明日もあるのかなと希望を持っていました。

 

息子は疲れたのか、時々簡易ベッドに横になったりしてましたが、私とかわるがわる夫の寝ているベッドの横で話しかけたり、様子を見たりしていました。

 

午後1時過ぎのことです。私が少し席をはずして戻ってくると、息子が心配そうに夫を覗き込んでいました。心電図のモニターの波形が弱くなっていました。

 

「寝ちゃダメだよ!目を開けて!息吸って!がんばって!」

髪やおでこ、手をさすりながら、息子と一緒に励まし続けました。

 

ナースコールを押すと、先生や看護師さんが来てくれましたが、

「モニターを見ています。ご家族で言葉をかけてあげて見守ってあげてください」と部屋から退出され、親子3人だけにしてくれました。

 

「今まで本当にありがとう。幸せだったよ。楽しかったよ。愛しているよ。大好きだよ」

「結婚してすぐ、スイスで暮らしたね。ストイブリーさんや猫のベンツェル懐かしいね。色々旅行したね」

「息子も生まれて幸せだった。家族でもたくさん旅行したね」

「病気してても、私達は何の不自由なく暮らせたよ。その準備をちゃんとしてくれていたね。ありがとう。とてもすごい人だね」

「がんばったね。頑張りすぎたね」

たくさん語りかけました。

 

普段あまり父と話さない息子も

「いままで本当にありがとうございました」

涙をこらえながら大きな声をかけていました。

 

夫は時々薄目を開けながら聴いてくれているようでした。

 

徐々にモニターの数字も低くなって、ついにゼロになってしまいました。

 

「寝ちゃだめだよ!まだがんばれるよ!起きて!」

私は夫のおでことほおにキスをしました。

「愛しているよ。大好きだよ」

「がんばったね」

 

私達の叫びを聞きながら、夫は静かに眠るように息を引き取りました。

 

その後、私の母と兄も到着して、声をかけてくれました。

 

先生が来て、瞳孔の拡大、呼吸の停止、脈拍の停止を確認し、死亡と判定されました。

 

午後2時55分でした。