私は、人生のいろいろな経験から


「性」は「聖なるもの」ということを実感してきました。


そうじゃないと


「母」という存在でもある私が


子供たちが読むであろう場所で


「性」について書けるはずもありません。



「聖なる」セックスから、子供は生まれる。


「性」は生命の根源のたいせつなもの。


でも、それが、受け取れないときもある。


私自身、長い間、そうだったのだなぁと思います。


それは今も続いている。


ハートをひらいて、すべてをゆだねるような


「聖なる時間」としてのメイクラブは生活の中で


なかなかもてません。


私は、その理由が


自分の「女性性」を押し殺してきたからだと思っています。


女性性を押し殺し


男性性全開で生きてきたことは


たくさんのご褒美をいただきました。


まず男社会で「負ける」ことがなかった。


しかし、「女性性」はずいぶん傷つけてきたんだなぁと思います。


「女性性」を感じたくて


それはいつも「恋愛中」なら感じられたから


恋愛をくりかえしてきたのだと気づきました


でも本当に私が求めていたのは「恋愛」ではなく


「女性性の回復」


それが「恋愛依存」の原因だった……


「女性性」が傷ついたのは


私の場合は、父との関係性から。


「男ならよかった」と思われ


父の夢の代償として生きることを求められた、


そんな子供時代


「女の子」として「愛された」記憶がありません。


「女の子として愛されたい」という強烈な思いを自分自身にまでも隠し


それを隠していることで


「愛される」こと が「悪いこと」「不可能なこと」イコールになっていった気がします。



その「罪悪感」が「性が悪いもの」「恥ずかしいもの」と思わせ、


以前の婚約者とのセックスレスの問題や男性関係がうまく


いかない原因だったのかもしれないな、と思っています。


こんなに成熟した大人になってなお


「父親との関係」が男性関係や


「性」に密接に結びついていることを思うとき


その深遠さに身震いします。



「女性性」が傷ついているとき、「性」のヨロコビも受け取れない。


しかし、それは、逆からいえば「性」「カラダのヨロコビ」が


「女性性」を癒していくということでもあるのです。




「からだ」という「神殿」が


本来の美しい聖なるメイクラブを求めるのは


ごくごく自然な流れ。


その先には、ただ頭の理解だけでは到達できない


「愛そのもの」そんな「BE」があるのです。