山上宗二の茶と利休 | 千利休ファン倶楽部

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千利休の哲学や思想、
考案した茶の点前に関する
様々な事柄を記事にしていきます。

茶聖、と言うよりもむしろ、
人間、千利休に焦点をあてていきます

利休の思想哲学を知るには、
弟子達の茶を見るのも大切な部分です。

その第一弾として最も相応しい人物は
紛れもなく、山上宗二でしょう。



山上宗二と言えば、
利休の高弟中の高弟。

その余りにストイックな侘茶への傾倒により
多くの大名達も恐れをなした、と
考えられている人物です。

利休の侘茶を誰よりも理解し、
それを天下人、秀吉に咎められようが
誰に何を言われても、貫き通した
剛直極まりない人物です。

時にそれは史実を無視してまで
現代の映画や漫画などで
オーバーに表現されることもあります。


宗二の茶はどんな茶の湯だったかと言うと、
明確にどのような点前をしていたのかは
まったく解っておりませんが、
少なくとも彼が執筆した
「山上宗二記」
を読む限りでは、まさしく
利休流茶道を地で行っていたのだと思います。



元々、茶の湯は濃茶を起源としており、
いつ頃、と言う記録は曖昧なようですが、
その発展系として薄茶が誕生しました。

にも関わらず、宗二は「宗二記」において
次のように表現しています。

「点前、薄茶が専らなり。是を真の茶という。
 世上に真の茶というは濃茶の事なり。
 是をば点前をも身をも崩して
 濃茶を固まらぬように、
 息の抜けぬように点つるなり。」

侘茶は、それまで存在した茶の作法から
余計な要素を次々と省いていき、
最終的に残った絶対必要要素だけで
構築されたものであり、
それが現在でも一般的に
「お茶のお点前」
と称されています。

宗二は侘茶人であったが為に、
元々あった濃茶を徹底的に侘びさせた結果、
そこに残る薄茶こそが侘茶の究極である、
と断じているのです。

世の中が何と言おうが、
宗二にとって利休の侘茶は
絶対だったのです。



また、「宗二記」の中で宗二は
天下人、秀吉が所持する茶道具より
利休が所持する茶道具の方が
より優れている、と皮肉っています。

いや、正確には利休所持の道具を、
関白所持の道具以上に大絶賛した、
と表現したほうが良いでしょう。

「はしだて(橋立の茶壺)
 堺の千宗易(千利休)にあり。

 この壺、丹後より出で候。
 丹後に過ぎたる名物とて、
 はしだてという旧説あり。

 (中略)

 名人の一世所持の壺なれば、
 御茶の事ならびに御壺の形、
 土、クスリ、いずれも言語を絶し候。
  
 (攻略)」

と言う内容でして、
関白秀吉が所持していた
茶壺に対する評価よりも、
遙かに上の評価をしていたのです。

関白所持の茶壺が100点満点中、
最高得点がちょうど100点だったとすれば、
利休所持だった橋立の茶壺は、
200点か300点ぐらいの評価だと言えます。

普通に考えれば、
天下人が所持していた物よりも
良い物が他に存在する、などと評すれば
死罪は免れないほどの無礼千万です。

しかしながら、宗二はそれを
口走るだけに留まらず、
堂々と記録に書き残したのです。

まるで武士のような剛気。



この山上宗二記、利休の茶を学ぶには
第一級の史料として知られています。

茶に修道されている方は例外なく、
利休に興味をお持ちの方も
一読の価値があると思います。

「利休賜死」のシリーズでは
宗二を、秀吉方のスパイとして
北条家に潜入した、と評しましたが、
これは歴史的事実だと言えます。

そういった重責を果たすのに
相応しい人物であったからこそ
宗二はスパイとして選ばれたのでしょうが、
実はもう一つ理由があったのだろうと
私は睨んでいます。

それが何かと言うと、
宗二は利休の茶にあまりに忠実すぎて
オリジナリティが全く見当たらなかった。

だから利休は、一時期宗二を
自分の手元から離すことによって、
自分なりの茶の湯を探す旅を
させたかったのでは無いでしょうか。

しかも北条方は上方(京風)の茶の湯に
非常に飢えていました。

特に利休の高名は北条方にも
十分すぎるぐらいに届いていたでしょうし、
北条方の誰もが利休の茶に憧れを抱いていた筈。

つまり、利休第一の高弟だった宗二は、
スパイとして送り込むのに最も適任だっのです。

疑いを掛けられるどころか、
北条方は兎に角にも、宗二から
利休流の茶の湯を
学びたくて仕方が無かったために、
素直に宗二の投降を
受け入れざるを得なかったのです。

と言ったところで、続きはまた次回。