人生を30年も生きていれば誰にだってあるはずだ。
ターニングポイントと思われるところが。
あのときあっちの選択肢を選んでいれば、今とはまったく違った世界を歩んでいたはず、とも。
そう思うときは、今の生活に満足していないときだ。えてして後悔がついてまわる。
俺のターニングポイントは大学3年になったばかりのころ。
大学の新歓コンパで知り合った恵子と付き合いだし、子供ができたと知らされたときだ。
まったく予想だにしていなかったから心底焦った。
大企業の就職に有利な保坂ゼミの入会テストに受かっていたし、二年間コンスタントに「優」ばかりの単位を取っていたからだ。
子供を堕ろしてもらうことを考えたが、母ひとり子ひとりで育った恵子の母に心配をかけまいと思うと、彼女に言うことなんてできなかった。
恵子と子供を養おうと、両親の忠告を聞かずに大学を辞め、得意だったシステムの技術を生かすため、中堅の規模の会社でSEとして働きだした。
残業がひどくて体力的にキツかったが、まだまだ伸びしろのある業種だったから前途は洋々かに見えた。
が、そこにリーマンショックが。
投資好きの社長の大失策の煽りで会社が倒産してしまったのだ。
それからというもの、学歴のない俺はまさに職を転々コースをまっしぐら。
ようやく落ち着いて、今はリフォーム会社で営業をしている。
需要のありそうな家を見て回り、毎日住宅街をうろうろ。靴がすぐ傷んでしまう。
靴を買い替えてばかりで毎月の小遣いはいっこうに増えない。
昼飯は西友の海苔弁にするか、百円マックと缶コーヒーで済ますか迷う日々だ。しかし、マックで百円マック単品テイクアウトは気が引ける。買う店舗のローテーションを気にしてしまうのが惨めだ。
こんな人生のはずじゃなかったよな、って心底思う。
あぁ………
明日が休みなので今夜は行き付けのラーメン屋に寄った。
深夜0時をまわるとマスターがラーメン作製を放棄し、飲んべぇたちがどこからともなく集ってくるという不思議な店だ。
だいたいここで飲んでいると記憶がなくなり、いつのまにか家の玄関で寝ていたりするから恵子にはいたく不評だ。
でも酒の量が濃いから安くあがる。
今日は特に歩き回ったせいもあってか途中寝てしまった。
どれくらい寝てしまったか…
涎を垂らしていることに気づき、ズズッと瞬間的にすすった音に反応して目を覚ますと見慣れない人が隣に座っていた。
顔中髭だらけで、真夏だというのに真っ黒いスーツを着て黒の蝶ネクタイをしている。
「ワタシは、倉井と申しまス」
「はぁ」
たどたどしい日本語である。
「アナタが寝ているあいだ頭の中をトウシさせていただきましたけど、ずいぶん今のジョウタイにフヘイフ満がおありのようダ」
「まぁ…」
この店の客には、関西弁ペラペラのバングラデシュ人がいたり、毎日ゴロゴロをひきづっているパンパンのばあ様がいたりとキャラの濃い人が多いがこの御仁もしかりだ。
辟易しつつ眠気眼でマスターを探すと、店の暖簾が仕舞われ、カウンターのこっち側ですでに高いびきだ。その隣では黒服のヒロシが突っ伏して寝ている。
なんてこったい…
倉井さんは鋭い目を更に光らせつつ話をつづける。
「もシよろしければ、あなたの人生のターニングポイントまでトキをサカノボらせてあげますヨ」
俺は手元の緑茶ハイをぐいっとあおり、この御仁の瞳をじっと見つめた。
「金は全然持ってないですよ」「いエいエ、イりませんよ少しも。商バイじゃありませんから」
いつものラーメン屋の雰囲気なんだけど、なんとも言えない不思議な空気が流れている気がする。
天井の60ワットの電球が心なしか暗い気がするし、眠っているマスターとヒロシがいくらか遠くに見えるような気もする。
空間がなんか変だ。
なんか今日は変な酔い方をしてしまったなぁと思いつつも興味本位でお願いすることにした。
「あ、そう。じゃあ遡らせてみてよ、あのときに」
倉井さんは待ってましたとばかりに口角をニヤリとあげると
「じゃア、これを右手にツカンで目をツブって」
えっ?
これってマイルドセブンのボックスじゃん…………
なぜ??
………
…………
このあいだ息子のりくやと初めてキャッチボールをしたときの光景だ。
「パパ、このボール固くて痛いよー」「胸の前でしっかり取れよ」「うん、わかったよー」
うっ!!うううッっ
ズン!
ああぁっ!
無理やり脳みそから今の記憶が引き抜かれたような嫌ぁな感覚が……
………
…………
3年前恵子の母さんと俺の両親とりくやで那須高原に行ったときの光景だ。
特別何をしたってわけじゃないけどみんな笑顔だなぁ。恵子がただソフトクリームを舐めてる顔が楽しそうで眩しい。
うっ!!
ズンっっ!!
って、う゛ぇ??
………
…………
あっ、りくやが爺に買ってもらったランドセル背負って畏まっている。
ズンっっ!
男の子だよ!ベッドに横たわった恵子が顔をくしゃくしゃにして俺に赤子を差し出す。
ズン、ズンっっ!!
月の輝く、夜の台場の浜辺で恵子が潤んだ目で頷く。「うん、ありがとう。ともに生きていこう」……
ズン、ズン、ズンっっ!!
ズン、
ズン、
ズンっっっ!
止めてくれ!!!
俺の命の次に大事なたくさんの思い出が消えていく!!!
………
…………
………「ちょ、ちょっと、あなた、ダイジョブ?」
「え?」
右肩が強く揺さぶられているような気が。
あぁ、恵子が心配そうに俺の顔を覗きこんでいる。
「ここはどこだ?」「なぁに言ってんのよ、うちでしょ」「そうなの?」
「ものすごくうなされてたけどダイジョブ?」
恵子の後ろの窓から朝の陽光が俺の目を射る。
無意識に顔を手で覆うと涙でぐっしょりだった。
「まぁったく。りくやが居間であなたのこと待ってるわよ~」
笑顔を残して、恵子が寝室から出てゆく。
ふぅ、
夢でよかった……
あの、耳から脳ミソが吸われていくような異様な感覚は気分が悪すぎる。
大事なものが情け容赦なく次々とデリートしていく感じと言ったら適当だろうか。
思い出しただけでも身の毛がよだつ。
んっ?
ふと右手で何かを掴んでいる。
ゆっくり開いてみた。
こりゃ、マイルドセブン。いやっ、改めメビウスだ!!!
う~む。
メビウスの輪と言えば、長~い長方形の帯を180°ひねって繋げたやつ。
一般には、考えを改めて過去に戻るっていう比喩に使われるやつだな…
これを握っているってことは夢じゃなかったんだ……
ふぅ、よかった、本当にあのときまで遡らないで。
たとえ人生のやり直しがきくところまで戻れるにしても、それは今までのかけがえのない大事なものすべてを失ってしまうということになるんだ。
いったい何が俺の幸せなのか?
年甲斐もなく迷っちまった。
でももうダイジョブだ。
俺はまっすぐに自分の人生を歩んでいる、間違いなく。
俺の家族がいつもそばにいてくれているんだ。
あっ、俺はもうタバコ止めたじゃん。
鏡台の隅のゴミ箱にメビウスを投げ入れた。
そういえば……倉井さんってクラインの壺のフェリックス・クラインのことか?
いやいやいや、まさかね……
ターニングポイントと思われるところが。
あのときあっちの選択肢を選んでいれば、今とはまったく違った世界を歩んでいたはず、とも。
そう思うときは、今の生活に満足していないときだ。えてして後悔がついてまわる。
俺のターニングポイントは大学3年になったばかりのころ。
大学の新歓コンパで知り合った恵子と付き合いだし、子供ができたと知らされたときだ。
まったく予想だにしていなかったから心底焦った。
大企業の就職に有利な保坂ゼミの入会テストに受かっていたし、二年間コンスタントに「優」ばかりの単位を取っていたからだ。
子供を堕ろしてもらうことを考えたが、母ひとり子ひとりで育った恵子の母に心配をかけまいと思うと、彼女に言うことなんてできなかった。
恵子と子供を養おうと、両親の忠告を聞かずに大学を辞め、得意だったシステムの技術を生かすため、中堅の規模の会社でSEとして働きだした。
残業がひどくて体力的にキツかったが、まだまだ伸びしろのある業種だったから前途は洋々かに見えた。
が、そこにリーマンショックが。
投資好きの社長の大失策の煽りで会社が倒産してしまったのだ。
それからというもの、学歴のない俺はまさに職を転々コースをまっしぐら。
ようやく落ち着いて、今はリフォーム会社で営業をしている。
需要のありそうな家を見て回り、毎日住宅街をうろうろ。靴がすぐ傷んでしまう。
靴を買い替えてばかりで毎月の小遣いはいっこうに増えない。
昼飯は西友の海苔弁にするか、百円マックと缶コーヒーで済ますか迷う日々だ。しかし、マックで百円マック単品テイクアウトは気が引ける。買う店舗のローテーションを気にしてしまうのが惨めだ。
こんな人生のはずじゃなかったよな、って心底思う。
あぁ………
明日が休みなので今夜は行き付けのラーメン屋に寄った。
深夜0時をまわるとマスターがラーメン作製を放棄し、飲んべぇたちがどこからともなく集ってくるという不思議な店だ。
だいたいここで飲んでいると記憶がなくなり、いつのまにか家の玄関で寝ていたりするから恵子にはいたく不評だ。
でも酒の量が濃いから安くあがる。
今日は特に歩き回ったせいもあってか途中寝てしまった。
どれくらい寝てしまったか…
涎を垂らしていることに気づき、ズズッと瞬間的にすすった音に反応して目を覚ますと見慣れない人が隣に座っていた。
顔中髭だらけで、真夏だというのに真っ黒いスーツを着て黒の蝶ネクタイをしている。
「ワタシは、倉井と申しまス」
「はぁ」
たどたどしい日本語である。
「アナタが寝ているあいだ頭の中をトウシさせていただきましたけど、ずいぶん今のジョウタイにフヘイフ満がおありのようダ」
「まぁ…」
この店の客には、関西弁ペラペラのバングラデシュ人がいたり、毎日ゴロゴロをひきづっているパンパンのばあ様がいたりとキャラの濃い人が多いがこの御仁もしかりだ。
辟易しつつ眠気眼でマスターを探すと、店の暖簾が仕舞われ、カウンターのこっち側ですでに高いびきだ。その隣では黒服のヒロシが突っ伏して寝ている。
なんてこったい…
倉井さんは鋭い目を更に光らせつつ話をつづける。
「もシよろしければ、あなたの人生のターニングポイントまでトキをサカノボらせてあげますヨ」
俺は手元の緑茶ハイをぐいっとあおり、この御仁の瞳をじっと見つめた。
「金は全然持ってないですよ」「いエいエ、イりませんよ少しも。商バイじゃありませんから」
いつものラーメン屋の雰囲気なんだけど、なんとも言えない不思議な空気が流れている気がする。
天井の60ワットの電球が心なしか暗い気がするし、眠っているマスターとヒロシがいくらか遠くに見えるような気もする。
空間がなんか変だ。
なんか今日は変な酔い方をしてしまったなぁと思いつつも興味本位でお願いすることにした。
「あ、そう。じゃあ遡らせてみてよ、あのときに」
倉井さんは待ってましたとばかりに口角をニヤリとあげると
「じゃア、これを右手にツカンで目をツブって」
えっ?
これってマイルドセブンのボックスじゃん…………
なぜ??
………
…………
このあいだ息子のりくやと初めてキャッチボールをしたときの光景だ。
「パパ、このボール固くて痛いよー」「胸の前でしっかり取れよ」「うん、わかったよー」
うっ!!うううッっ
ズン!
ああぁっ!
無理やり脳みそから今の記憶が引き抜かれたような嫌ぁな感覚が……
………
…………
3年前恵子の母さんと俺の両親とりくやで那須高原に行ったときの光景だ。
特別何をしたってわけじゃないけどみんな笑顔だなぁ。恵子がただソフトクリームを舐めてる顔が楽しそうで眩しい。
うっ!!
ズンっっ!!
って、う゛ぇ??
………
…………
あっ、りくやが爺に買ってもらったランドセル背負って畏まっている。
ズンっっ!
男の子だよ!ベッドに横たわった恵子が顔をくしゃくしゃにして俺に赤子を差し出す。
ズン、ズンっっ!!
月の輝く、夜の台場の浜辺で恵子が潤んだ目で頷く。「うん、ありがとう。ともに生きていこう」……
ズン、ズン、ズンっっ!!
ズン、
ズン、
ズンっっっ!
止めてくれ!!!
俺の命の次に大事なたくさんの思い出が消えていく!!!
………
…………
………「ちょ、ちょっと、あなた、ダイジョブ?」
「え?」
右肩が強く揺さぶられているような気が。
あぁ、恵子が心配そうに俺の顔を覗きこんでいる。
「ここはどこだ?」「なぁに言ってんのよ、うちでしょ」「そうなの?」
「ものすごくうなされてたけどダイジョブ?」
恵子の後ろの窓から朝の陽光が俺の目を射る。
無意識に顔を手で覆うと涙でぐっしょりだった。
「まぁったく。りくやが居間であなたのこと待ってるわよ~」
笑顔を残して、恵子が寝室から出てゆく。
ふぅ、
夢でよかった……
あの、耳から脳ミソが吸われていくような異様な感覚は気分が悪すぎる。
大事なものが情け容赦なく次々とデリートしていく感じと言ったら適当だろうか。
思い出しただけでも身の毛がよだつ。
んっ?
ふと右手で何かを掴んでいる。
ゆっくり開いてみた。
こりゃ、マイルドセブン。いやっ、改めメビウスだ!!!
う~む。
メビウスの輪と言えば、長~い長方形の帯を180°ひねって繋げたやつ。
一般には、考えを改めて過去に戻るっていう比喩に使われるやつだな…
これを握っているってことは夢じゃなかったんだ……
ふぅ、よかった、本当にあのときまで遡らないで。
たとえ人生のやり直しがきくところまで戻れるにしても、それは今までのかけがえのない大事なものすべてを失ってしまうということになるんだ。
いったい何が俺の幸せなのか?
年甲斐もなく迷っちまった。
でももうダイジョブだ。
俺はまっすぐに自分の人生を歩んでいる、間違いなく。
俺の家族がいつもそばにいてくれているんだ。
あっ、俺はもうタバコ止めたじゃん。
鏡台の隅のゴミ箱にメビウスを投げ入れた。
そういえば……倉井さんってクラインの壺のフェリックス・クラインのことか?
いやいやいや、まさかね……