久しぶりに地元の友達と何日か過ごしてみて、居心地の良さだとか空気感を共有できている充足感を感じた。僕は浪人しているから同じ学年の人たちは二つ年 下になる。もちろん大学生活はとても楽しいし、友達と過ごす時間は何物にも代えがたいと思う。もっとも一人で過ごす時間も好きなんだけど。

 人生で一番楽しいとすら思える大学生活だけど、やっぱり同年代というのは大きな価値であることを実感した。それは話の端々で感じるスムーズさとか、意表 を突く意見だったりする。自分の発した言葉をうまくすくってくれるばかりか、”あく”まで丁寧にとって返してくれる感覚。たまにすくえていない部分がある のだけど、それが嬉しかったりする。そういう言葉では言い表しがたい心地よさがあった。

 同じ環境で、同じ風にさらされて生きてきたからだろうか。その風がこの満たされた感覚を連れてきているのだろうか。もちろん共通の話題が多いというアド バンテージは少なからずある。こういう「あるある」の楽しさというのは心理学的にも証明されているらしい。高校の時に「共有」という心理の動きを教わった ことがある。人は感情とか、話題を共有できた時に楽しさを覚えるらしい。この動きがたくさんもたらされるから同年代は楽しいのだとも思う。

 それから、大切なのは「先入観」なのかもしれない。「同年代」という言葉がもたらす先入観が充足感もつれてきている、と言ったらそうなのだろう。しかし この先入観というのは意外にも大切なのではないかと思う。普段から言われるこの言葉は、ともすれば危険な考え方だと捉えられている。例えば運転での「だろ う運転」がダメだというのがそれにあたる。それでも先入観は良い方に働くこともしばしばあるに違いないと僕は思う。

「同年代」という言葉が伴う、「うまくキャッチボールをしてくれるだろう」とか「同じ空気感を味わえるだろう」という先入観が、会話の楽しさを底上げして くれる。その底上げの役割というのは大変に重要で、一種の盲目状態にいざなってくれる。盲目になればもちろん危険な状況に陥ることも多い。けれども、先に あげた充足感を得るうえで役に立つことも多いのではないだろうか。

 それから、さらに言えば仲間意識のようなものも働いているのではないかと思う。同じ世代に生まれた「戦友」のような空気に包まれている気がしないでもな い。こういう包まれた空気というのは日本人特有な気がする。共同体とでもいうのかな。日本人は「場」を大切にするらしい。「個」ではない「場」。「空気が 読めない」という言葉はこの性質を端的に表している気がする。場は生き物のように動くから、とらえるのには苦労するのだけれど、その場を、戦友の空気が固 めてとらえやすいようにしてくれる。そういう意味もあるのではないだろうか。

 楽しい時間は短い、というのは本当だと思う。友達は二泊三日を経て帰って行ってしまった。彼はまた違う土地の違う友達と過ごす時間に戻るのだろう。僕もそうであるように。それに感じるそこはかとない虚無感は、何なのだろう。「占有したい」というほどの心の動きは無いにしても、何かもったいないような気がする。僕と広げた場を、あちらでも広げている。それが自分と過ごしたものと違うことを、なぜか願ってしまう。言い換えると、僕と広げた場は特殊なもので、何物にも代えがたいものであってほしい。そういう利己的な心境はまま起こる。でもそういう利己が関係を強固なものにするんじゃないかな。

 底上げされた楽しさの上で、さらにぽつぽつと降ってくるような共有。それを包み込む安堵に満ちた空気。そんな楽しさが同年代にはあるのではないかと思う。