音楽には流れというものがある。それを俯瞰しながら演奏者は自由に表現を加えていく。俯瞰できる高度が足りなければ、音楽はぎこちないものになり、端的に言えば下手な演奏になってしまう。僕はそういう経験を何度もした。音楽をほとんどすれすれの所から眺めて演奏する癖があるから、どうしたって全体として意味をなさないものになってしまう。
これはいけない。目先のことに囚われたぎこちなさは必要ないのだ。今弾いている左手のフレーズが難しいから、そこばかりに固執して音楽の不自然な凹凸が広がる。この「目先のぎこちなさ」を失くすために練習を続けるのだと思う。意味のない凹凸を一度ならし、それからゆるやかな表現のカーブをくわえる。そういうことが直感で出来るようになれれば、言うことはないのだけど、難しい。
例えば文章を書いている時、人と話している時、目先のぎこちなさは首をもたげてくる。高度が足りないと、前後のつじつまが合わなくなって、破たんが起きる。いわゆる「空気が読めない」(僕はこの言葉が嫌いなんだけど)という状態に陥ってしまうのだ。目先のぎこちなさを回避するには、とにかく高いところを飛ぶ俯瞰の眼を身に付ける必要があると思う。
俯瞰の眼を手に入れるのは、つまりあらゆる経験であったり、知識であったり、またこなれた態度だったりする。一口に簡単に言っても難しいのはもちろんだが、「こなれた態度」というのはある意味僕の理想の姿だ。ファッションでもよく「こなれ感」といった言葉が使われるのだけど、つまるところかっこいいということだ。よく自分をわきまえて、その上でほどよく突き抜けている感覚。「ぎこちない」とは正反対に位置するこの言葉。体得するには、やはり以前にも言った「客観的に自分が見られるか」というのが大切な気がする。これも一口に言えないくらい難しいことだから、また書きたいと思っている。
達観、という言葉があるが、これはまさに俯瞰する高度を非常に高めた態度なのだと思う。これが良いかどうか、目指す姿かどうかは別として、間違いなくぎこちなさとは対極の言葉だろう。
しかし僕はこの「ぎこちなさ」こそが日々を送っていく中で重要な要素を占めているのだと思う。心地よい起伏のようなものを与えてくれているのだと思う。「達観」という態度はもはやそういう起伏すら通り越した次元なのだから、楽しいも何も無いのではないだろうか。こういう起伏を嫌わない考えが備わっていればと思う。
もちろん音楽の演奏となると、なるべく排除したいものだが、この「ぎこちなさ」が息遣いを伝える手段になりえることもある。例えばジャズのアドリブ演奏では、不自然な凹凸そのものが臨場感と緊張感をもたらしてくれるものだと考える。もちろん度が過ぎていては意味がない。適度が凹凸が演奏の香辛料になることは間違いない。
日常の生活でもそうだ。この起伏に悩まされることこそが、生きているということのような気がする。悩むというのはつまり「ぎこちなさ」に端を発する起伏であり、それを乗り越えたときに、加速装置よろしく喜びが生まれるのではないか。もちろん悩みの渦中にいるときはそういうことを考える暇はないのだけれど。
香辛料は料理の味を高めるのに適しているのはもちろんだけれど、かけすぎては意味がない。その量の吟味が出来るようになりたいと思う。にしても、ここまで書いて思ったんだけど、僕は何かにつけて論を飛躍させ続ける癖があるような気がする。何でも結び付けて考えて、全体に通じるような普遍的な回答を得たがると思う。またこれに着目した記事を書きたいなぁ。これもぎこちなさなんだろうか。
これはいけない。目先のことに囚われたぎこちなさは必要ないのだ。今弾いている左手のフレーズが難しいから、そこばかりに固執して音楽の不自然な凹凸が広がる。この「目先のぎこちなさ」を失くすために練習を続けるのだと思う。意味のない凹凸を一度ならし、それからゆるやかな表現のカーブをくわえる。そういうことが直感で出来るようになれれば、言うことはないのだけど、難しい。
例えば文章を書いている時、人と話している時、目先のぎこちなさは首をもたげてくる。高度が足りないと、前後のつじつまが合わなくなって、破たんが起きる。いわゆる「空気が読めない」(僕はこの言葉が嫌いなんだけど)という状態に陥ってしまうのだ。目先のぎこちなさを回避するには、とにかく高いところを飛ぶ俯瞰の眼を身に付ける必要があると思う。
俯瞰の眼を手に入れるのは、つまりあらゆる経験であったり、知識であったり、またこなれた態度だったりする。一口に簡単に言っても難しいのはもちろんだが、「こなれた態度」というのはある意味僕の理想の姿だ。ファッションでもよく「こなれ感」といった言葉が使われるのだけど、つまるところかっこいいということだ。よく自分をわきまえて、その上でほどよく突き抜けている感覚。「ぎこちない」とは正反対に位置するこの言葉。体得するには、やはり以前にも言った「客観的に自分が見られるか」というのが大切な気がする。これも一口に言えないくらい難しいことだから、また書きたいと思っている。
達観、という言葉があるが、これはまさに俯瞰する高度を非常に高めた態度なのだと思う。これが良いかどうか、目指す姿かどうかは別として、間違いなくぎこちなさとは対極の言葉だろう。
しかし僕はこの「ぎこちなさ」こそが日々を送っていく中で重要な要素を占めているのだと思う。心地よい起伏のようなものを与えてくれているのだと思う。「達観」という態度はもはやそういう起伏すら通り越した次元なのだから、楽しいも何も無いのではないだろうか。こういう起伏を嫌わない考えが備わっていればと思う。
もちろん音楽の演奏となると、なるべく排除したいものだが、この「ぎこちなさ」が息遣いを伝える手段になりえることもある。例えばジャズのアドリブ演奏では、不自然な凹凸そのものが臨場感と緊張感をもたらしてくれるものだと考える。もちろん度が過ぎていては意味がない。適度が凹凸が演奏の香辛料になることは間違いない。
日常の生活でもそうだ。この起伏に悩まされることこそが、生きているということのような気がする。悩むというのはつまり「ぎこちなさ」に端を発する起伏であり、それを乗り越えたときに、加速装置よろしく喜びが生まれるのではないか。もちろん悩みの渦中にいるときはそういうことを考える暇はないのだけれど。
香辛料は料理の味を高めるのに適しているのはもちろんだけれど、かけすぎては意味がない。その量の吟味が出来るようになりたいと思う。にしても、ここまで書いて思ったんだけど、僕は何かにつけて論を飛躍させ続ける癖があるような気がする。何でも結び付けて考えて、全体に通じるような普遍的な回答を得たがると思う。またこれに着目した記事を書きたいなぁ。これもぎこちなさなんだろうか。