L.L Winn 22歳。「滅びの前のシャングリラ」を読了した。最近親心というものを子供もいないのに感じることが増えて、妙に静香に感情移入してしまった。

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ということで。書き出しをパクってみました。この度、凪良ゆうさんの「滅びの前のシャングリラ」を読み終えたので感じたことを書いていこうと思います。


まずストーリーを超ざっくり要約すると、一ヶ月後に人類が災害で死ぬと分かった時に、自分の人生に色々なものを抱えている登場人物達がどう生きるか、というような話。登場人物達は全員自分の過去や現在に辛い日常を抱えていて、日々絶望する中であまりにも客観的な絶望が目の前に現れたらどうする?どう立ち向かう?という部分に深堀がされていた。いじめられっ子の友樹も、元ヤクザの信士も、元ヤンの静香も、そしてアイドルの路子も、全員が限られた一ヶ月の中で自暴自棄になるどころか人生最大の幸福を感じるという、"常に辛い思いをしていないが故に唐突な終わりに絶望する大衆"と綺麗に対比されていて、こう切ないが良かった、、と思える話のように感じられた。


振り返ると自分は子供の頃から親に愛されて、経済的に裕福でないながらも塾に入れてもらったり私立の大学に通わせてもらったり一人暮らしさせてもらったり、毎日楽しく幸せで、本作の登場人物とは真逆の人生を歩んできたように思える。そんな中で、もし一ヶ月後に隕石が降ってきて人類全員死にますよ、これはデマではなく事実です、とか言われたらどうするだろうかと、これを書いている今も考えさせられる。仲の良い部活の友人達と遊ぶだろうか。実家で家族と過ごすだろうか。一人で出来る限りの趣味に没頭するだろうか。多分自分なら家族を選ぶと思う。何よりも大事な家族と来たるその瞬間まで一緒に居て、多分家族全員でお茶でもしながら、笑顔で泣きながら最後を迎える気がする。友樹達が最後、路子のライブを聴きながら逝ったように。


こう考えると、途中まで自分とは真逆の人生を歩んでいた彼らが最終的には自分と同じような心情になっている。「幸せ」である。では、これまでの人生において絶望しかなかった彼らが最後の最後で感じ得た幸せとは何なんだろうと読みながら漠然と考えていた。


それは、「今を生きたい」と心から思うこと、思える環境が存在していることなのではないか(どこかの漫画にも居ましたねい"ぎだい"って叫んでた人)。


これ、当たり前のように今まで感じてたがこの感覚こそが恵まれてる証拠だと最近色んな本や人を見ていて思うようになった。家族に虐待された人、今いじめを受けている人、ネットで誹謗中傷される人、色んな背景で特定の人は大衆が普段感じることのない"死への渇望と現実への呪い"をするようになる。これを大衆が感じないのは、通常"死"という客体が目の前に鎮座していないからだ。死ぬことなんて非現実的だし、死にたいと思うことなんて微塵もない。だからこそ近くに死が迫ってくると恐怖し、絶望する。本作の登場人物達はこれの真逆なのだ。死や絶望が常に思考の一部に組み込まれているからこそ、それが迫ってきてもさほど動揺せず、どっしり身構えていられる。そして自分の人生の中に何か一つでも残そうと惚れた女に会いに行ったり好きな子のエスコートをしたり実の親に会いに行こうとしたり具体的な行動を取り始める。その行動を通して初めて幸せを感じ、生きたいと思う。死への渇望が生への渇望に変わる。


つまり、毎日家族と食事が取れることや妻子の顔が見られること、対価が得られる仕事があること、ライフラインが整っていること、いじめられないこと、普段は意識もしないどーでも良さそうなことがどーでも良くなく感じ、有難みが増す。彼らが最後の最後で掴み取った幸せを自分は22年間享受し続けられたなんて、なんて幸せなんだろう。


自分が幸せを感じるだけではなくて、世の中を呪いたくなるほど辛い思いを毎日して生きている人が今もいることを忘れたくないと思った。