先日から小出しにしていた移住にいたる経緯

 

「そんなに小出しにしてて、最後までいくのにどんだけかかるんだ?」とか

 

「全部通して読んでみて伝わることもあるかな」とか聞いたりして

 

ケチケチせずに一気に読んでもらって、また日々のことは書いていったらいいわけだしな、と気分も変わってきた。

 

というわけで、前編、後編に分けて掲載するので、興味ある方はお読みください。

で、興味が高じたら、オンラインとか、直接訪れるとか、触れてもらえたらと思います。(アズワンネットワークのブログ

 

では、お楽しみください。

 

『鈴鹿へ、そして世界へ 』

 

 2021年1月、新生活スタート。大晦日から3が日を浜松の実家で過ごし、軽のワンボックスに入るだけの荷物を積み込んで鈴鹿に戻ってきた。

 積み込んできたとはいっても、衣類や衣類ケース、布団セット、三段ボックス、本など簡単な生活用品のみ。冷蔵庫やトースター、炊飯器やテレビ、洗濯機などの電化製品、ダイニングテーブルやイス、キッチン用品や食器や食器棚など、家財のほとんどは鈴鹿のコミュニティのストック倉庫や、僕の移住情報を聞いて声かけてくれた人たちから調達した。

 

 2020年4月8日に、アズワンネットワーク鈴鹿コミュニティにあるサイエンズスクールの研修生プログラムに参加するに当たっては、「とりあえず、3ヶ月暮らしながらやってみる。」ということだけ。先のことは考えず、向かいたい方向へ舵を切ってみた。ただなんとなく、3ヶ月もしたら浜松に戻って暮らしをしていくのだろう。そんなふうに思っていた。

 

 2011年から浜松の仲間とやってきていた市民活動のトランジションタウンの全国のつながりの中で、鈴鹿のコミュニティの人たちとの交流がはじまり、2015年くらいから鈴鹿でのイベントやスクールのコースに通い始めていた。

 知り合った当初から、鈴鹿のネットワーク事務局の北川さんとか弘子さんとか、メッセージをくれたり、東京のアースデイの行き帰りに、その当時運営していたシェアハウスに立ち寄ってくれたりしていたけど、今思うと鈴鹿から来る人たちのことをかなり警戒していたと思う。

 

 トランジションの活動を中心的に進めていた家族が鈴鹿に遊びに行ったり、シェアハウスに住んでいた若者たち(現在、鈴鹿のおふくろさん弁当の運営見ている吉岡くんと、その奥さんの里美さん)が「ちょっと学んでくる」と言って鈴鹿に留学したりしていたときも、自分は「ふーん」って感じでいた。

 

 トランジションタウンの活動も、2013年に入って、仲間とシェアハウスやカフェをやり始めると、人間関係で葛藤する場面が多くなった。そんなところから、自分も鈴鹿のコミュニティの取り組みに関心が出てきて、セミナーに参加してみたりということがあった

 サイエンズメソッドについても、人間関係を良好にするハウツーみたいに思っていて、「コースに通えばなんとか現状が改善されるんじゃないか」そんな期待があったんだと思う。

 

 暮らしという面では経済的にはパートなどもしてお金を得たりした。カフェやシェアハウスの運営は、今から思うと趣味的な感じ。願っていること、目的もあったが、そこで暮らしにかかるお金も稼いでやっていくという感じではなかった。高齢者のデイサービスや透析クリニックの送迎、2019年の夏から研修プログラムに入る2020年の3月末までは、児童養護施設で働いたりしていた。

 

 児童養護施設で働きながら、職場の仲間や子どもたちと寝食を共に暮らしながら、社会的には「弱者」と呼ばれる人たちのことや、そのような状況や状態を生んでいる社会とは何だろう?という問いが、現場での仕事やサイエンズスクールの「社会を知るためのコース」に参加してみたりする中で感じるところがあって、今まで情報として外にあった社会が、自分の中に入ってくる感じで、はじめて「自分はどんな世界を願っているのか」そんなところに触れた気がした。

 

 2020年の2月、サイエンズスクールの「人生を知るためのコース」に参加する予定でいたが、参加者が少なかったのかコースが中止になって、替わりに「研修生プログラムはどうですか?」とスクール事務局からのメッセージがあった。その時は仕事を辞める気も無かったし、「せっかく1週間休みを取ったのだし、研修でもいいか」くらいの気持ちで初めて研修プログラムに参加してみた。

 

 アズワンハウスという、1階にアカデミー生、2階にコミュニティの人と研修生が暮らすシェアハウスをベースに、職場研修として午前中ファームに受け入れてもらい、午後は自由に過ごし、夕方に「研修生ミーティング」が1時間。水曜には初めて、今までは会員の聴ける録音のみで触れていた「輪読サロン」にも参加してみた。あっという間の1週間。

 

 最終日に「1週間やってみてどうでしたか?」という面談の場で、じっくり感じたことなど話していたけど、「もう少し長期で暮らしながらやってみたいな」というのが湧いてきていて、それも素直に出してみた。でも「仕事辞められないな」とか「慕ってくれている子どもだちが、、、」とか、湧いてくる想いを抑えるような考えが口をついて出てきているのを聴きながら、「職場や子どもたちにも、力也さんが願っていることや考えていることは素直に出したり相談することはできますかね、、、」という感じで言ってくれるのを聞いたりしているうちに、なにか硬くなっていたものが溶けて軽い気持ちになっていた。

 

 研修プログラムから帰って、早速職場の施設長に話をしにいって、気持ちを聴いてもらった。そして、「できたら3月一杯で退職したい」ということも伝えた。急な申し出にビックリしていたけど、受け止めてくれて、その後の1か月で退職の段取りがついていった。施設の子どもたちの卒業や進学を祝う会。退職を伝えたときの子どもたちの涙。何とも言えない思いでみんなと過ごした家をあとにした。

 

 研修プログラム直前、社会はコロナ渦。都市部では「緊急事態宣言」の発令が取り沙汰されていた。「こんな時に何を考えてるの?」そんな両親の言葉を聞きながら、そこでも自分がここまで鈴鹿に通いながら感じてきていること、そこから今やってみたい、向かっていきたいものについて、思っていること、素直に伝える。 今までも自宅の、両親の家の隣でシェアハウスをしたりカフェを開いたり、二人にはろくに相談もせずに、ある意味ワガママにやってきた。相談するとか、気持ちを聴いてもらうとか、そういうことを一番近くで育ててくれた両親に対しても、どこかあきらめているような、そんな自分と両親との関係だった。父も母も、思うところはそれぞれにあっただろうが、僕の人生を見守ってきてくれた一番近しい人たち。30歳を過ぎてUターンして再び共に暮らすようになって、気が付けば15年以上が過ぎていた。今回の旅立ち、どんな気持ちで見送ってただろう。家族とは不思議なものだ。どこにいても、どんな状況であっても、いつも心にその人たちがいる。

(後編につづく)