前回よりだいぶ月日が流れましたが、

皆様如何お過ごしでしょうか。

 

 

夏は過ぎ、いまや秋を待つだけとなりました。

 

 

忙しさは相変わらず、

 

フラッシュバックとの付き合いも相変わらず…ではなく、

 

別のテーマでの通り、

 

フラッシュバックについては耐性の改善はみられています。

 

 

しかし、日々の躓きはひたすら多く、

新たなフラッシュバックの種を増やさないようにするための努力で、

日々のエネルギーが浪費されたりもして…。

 

今月は比較的休みの日が多いので、

そういった内省的なことにも比較的目を向けやすかったりして…。

 

その割には記事にまでできるまで

精度を高めたものはまだ少ないという現実は

肯定しないといけないというのがまず近況としては

ありまして…。

 

定型な方々と共有できる暗黙知のようなものが、自分のような発達障害者には比較的少ないという点もあるのでしょうが…。

暗黙知を前提としたテキストを生産するのが

非常に難しい、というか

単なる独りよがりになりがちなので…。

 

自分自身と連れ合いは、

このあじょしが発達障害者であるという認識では

一致できているのですが、

合理的な配慮が日々得られているのかといえば、

必ずしもそうではないという現実があるわけでして…。

 

マイ発達障害者ライフの進展、といえば、

最初のフラッシュバック耐性の強さ、ぐらいで、

特に新しいことは強いて述べてはいません。

 

しかし、新しい何か!が起きるであろう予感だけは

あるのです。

それが吉と出るか凶と出るかは

まだ時の流れのままですが…。

 

発達障害と定型発達の背後には、

共通知あるいは暗黙知を前提とした

呼応関係が必要ではないかと、

なぜなら、人間は間違えやすいし、

完全ではないし、

そうなり得ない。

歴史と呼応しながら一歩ずつ前に進むほかない。

発達障害者でも、

自分の立場というものが完全ではないことに気づくことがあるはずだし、

そうなると自分とは異なる、

他者の声にも耳を傾けざるを得なくなる。

発達障害者が、

定型なひとたちに近づくためには、

このような視点が絶対に必要になるのだろうと、

いま、私はそう考え始めているのです。

 

定型なひとたちにおいても、

先のような視角をもったひとが居るのではないかと

思うのは思うのですが、

まだ実際にお目に掛かったことがないので

断言はできません。

定型発達者が、

発達障害なひとたちに近づくための

アプローチ、といったことに想いを巡らせている、

そういうひとたちの存在がまだ見えてこないのです。

はっ!

いままで発達障害本を散読してきた

自分が何を云ってるんだ?

これまでの

定型発達者が、

発達障害なひとたちに近づくための

アプローチ、

それ自体ではなかったのか?

 

これまた失礼。

それでは、次回まで皆様、お元気で~(*´∇`*)