エンディングが異なる二つの作品ということで、クルト・ウ゛ァイルのオペラを思い出しました。能「谷行(たにこう)」をもとにブレヒトが戯曲を手掛けたオペラ「ヤーザーガー(はい、と言う人)」です。谷行とは、山の修行において病気になった者は、その時点で谷へ生埋めにするという山岳信仰の掟のひとつなのだそうです。以下、ウィキペディアより「ヤーザーガー」の粗筋を拝借しました。


【1幕】ある教師が、弟子たちとともに危険な峰越えの旅行をすることになった。教師の生徒の中に、母子家庭の少年がいた。教師はその少年の家に行き、少年の母親に別れのあいさつをする。その会話を聞いた少年は、母親の病気を治す薬を手に入れるため自分も峰の向こうの町へ行きたいと思い、峰越えの旅への参加を申し出る。教師は、峰越えはつらくて危険な旅であり、子供にはとても無理だと反対するが、少年の熱意におされ、最後は旅への参加を認める。

【2幕】教師の一行は、けわしい山を登る。少年は途中で病気になり、動けなくなる。昔からのならわしによれば、このような旅で病気になった者は、谷に投げ込まれねばならない。弟子たちは教師に、ならわしを実行するよう迫る。教師は少年に、昔からのならわしを語りきかせ、それを少年が「了承」してくれるかどうか、イエスかノーかをたずねる。生か死か。究極の選択に対する少年の答えは……。


「ヤーザーガー」の結末はタイトル通り。少年は「はい、了承します」と答え、谷底に突き落とされます。教育用の学校オペラとして完成したこの「ヤーザーガー」ですが、鑑賞した子供たちからの批判や感想をもとに、その後ブレヒトはエンディングの異なる「ナインザーガー(いいえ、と言う人)」という戯曲も完成させました。こちらはオペラにはなっていません。ブレヒトは、順不同で構わないのでこの2演目を連続して演じることを指定しました。「ナインザーガー」において、教師から選択を迫られた少年は「いいえ、お断りします」と答え、全員で村に帰ることを望みます。各演目は、エンディングで以下のような言葉で締め括られます。


「ヤーザーガー」
友たちは薬の壺を受けとり
この世の運命(さだめ)と厳しい掟を嘆きつつ
隣の者より責任が重くならないように
肩をそろえて崖の淵に一列に並び目をつむり
子供を谷に投げ込んだ
そして、砂と石をそのあとから投げ込んだ


「ナインザーガー」
こうして友は友の手をとり
新しいしきたりをつくり
新しい掟を定めた
恥辱や嘲笑に耐えるために
目をつむって
誰も隣の者より臆病にならぬよう
一列に並んで腕を組み
少年を連れ戻した


皆さんはどちらの結末に、どのような感想を持たれるでしょうか。



先日、芸大内の奏楽堂で行われた能「隅田川」と教会オペラ「カーリュー・リウ゛ァー」の同時上演を観劇しました。観劇してみた結果ですが…こうしたアカデミックな取り組み、僕は案外好きだなぁと感じました。


曲目解説によると、1956年ブリテンは5ヶ月にわたる演奏旅行中、急遽決定した12日あまりのごく短い日本滞在中に能「隅田川」を鑑賞、日本を発つ当日に再び同じ演目を鑑賞、笙まで購入したそうな。イギリス帰国後から能「隅田川」を基に構想を練り上げ、教会で行われる宗教劇として再構築されたオペラ、それが「カーリュー・リウ゛ァー」。もとになった能「隅田川」の粗筋は、自分の息子を人買いにさらわれた狂女は京都から遥々武蔵までやってきたが、息子の死を知った母親は息子の墓(塚)の前で悲嘆にくれるというもの。


芸大のプログラムにより英国に派遣され、ブリテンの研究に従事されたテノールの鈴木准さん(カーリュー・リウ゛ァー 狂女役)は素晴らしく清潔な声で演じられており、男性が女性を演じる際の違和感を登場の第一声で拭い去り、観客として心置きなく作品を堪能できました。能の凝縮された空間を踏襲したこのオペラには、鈴木さんのような節度ある歌唱が相応しいのだなぁと勝手に納得。


エンディングはオペラと能とで少し異なり、オペラ「カーリュー・リウ゛ァー」は、母のもとに霊となって現れた息子が平安を取り戻すよう語りかけ、母は狂気から救われます。いっぽう能「隅田川」のエンディングは、大念仏の中に息子の声を聞いた母は、目の前に息子の姿を見たが、それは塚の上に生い茂る草だった…というものです。能「隅田川」は、「現世のすべてのものは生滅してとどまることなく常に移り変わっている」という無常観のもとに終結します。ブリテンの作品に存在した救済はそこにはなく、母のやり場のない気持ちが空中に浮いたまま終わりを迎えます。


この無常という観念、四季の変化に富む日本においてぴんと来るといえば桜の開花ではないでしょうか。寒い冬を耐え忍んで花開いた桜はことのほか美しく、散る様子もまたいとをかしといった感覚でしょうか。もっとも、能「隅田川」のエンディングは単に趣があるという一言で片付けられるものではなく、母親の悲嘆の中で幕を閉じるのですから、桜を愛でる感覚とはまた異なるのだと思いますが。


二つの作品を鑑賞してみて、終演後にじんわり心も身体も軽くなったような感覚は一体なんだろうと思っていたのですが、これが浄化ということでしょうか。浄化・カタルシスとは「そこに展開される世界への感情移入が行われることで、日常生活の中で抑圧されていた感情が解放され、快感がもたらされること。」と辞書にありますが、悲劇のもたらす効果としてアリストテレスが説明したものだそうです。これまで自分が体験した演目では感じたことのない感覚でしたので、とても不思議な心持ちで帰宅したことを覚えています。

9月26日(水)日暮里のサロンホールにて、グノー作曲ロメオとジュリエットのロレンス神父役終演しました。


フランスオペラのキャストは初めてだったのでたいそう四苦八苦しましたが、ご一緒したフランス帰国組の歌手の方々は、母音の狭い広いや鼻母音に関わらずちゃんと息が流れ響きが乗っていて、やはりそういう声には他言語では聞くことのできない独特の美しさがありますね~。


今回フランス語指導の先生が「発音は、正誤の問題ではなく美醜の問題です…」とおっしゃっていたのが大変印象的です。フランス語の発音体系は、稽古開始前にはおおよそ理解出来たのですが、いざ歌唱となると余計に母音を開きたくなるのでございまして…いやはや。それでも言語指導の先生には「上條ちゃん、アンタだいぶいいセンいってるよ」と褒めて頂いたので、調子に乗って目下フォーレを勉強中(@_@)


そういえば以前、「スーパーベルカントでないとフランス語は歌えませんがな、ガハハ」とどなたかがおっしゃっていたっけ。目指すはベルカントにフランス語の美感を乗せられるように精進…ですね。