10歳の私が、のん気にトレンディドラマを見ていると“(昭和)天皇陛下が●●病院で受診されました。”と、時折、ニュースで伝えられていたのを覚えている。

 まだ、両親と弟の四人で同じ部屋に眠っていた頃のことだ。

 私は、丑三つ時にお手洗いに行くため、のっそりと上半身を起こし、ふと襖を見る。母親が立っているように感じたのだ。

「お母さん、私もトイレに行くから、待って!」

と、二段ベットから起き出そうとしたのだが、母親からの返答が全くない。どうして?と、不思議に思い足元をに目をやる。私はハッと息を飲んだ。布団の中で父親と母親が一緒にそこで寝息をたて眠っていた。慌てて、さっき母親を見た場所に目をやると、そこには白い浴衣を着た腰近くの長さの艶やかな黒髪の女性が逆さに吊られていたのだ。ただ、なぜか全体が濡れているように見えた。

 幽霊を見たのは、初めてだった。しかも、足があったのだ。驚き、恐ろしくなって、私は布団の中に潜り込み、キツく目を閉じた。

 早く朝になって!と、お手洗いに行きたいのを我慢しながら…。


「りか、起きなさい!」 

気がつくと、朝になっていた。

「お母さん、夜、トイレに行こうとして、見たらお母さんがいたから、声をかけたんだよ…」

 私の勘違いかもしれない。母親にはトイレに行っていたわよ。と言ってほしいと願いながらも、やっぱり幽霊?…。と、恐怖した。

「お母さん、昨日の夜は起きていないわよ。」

「えっ。お母さん、私、幽霊を見たみたい…。」

 青ざめる私には目もくれず、母は毎朝の家事に取りかかっている。夢のまま?でも、あれは確かに幽霊だった。足があった。幽霊って足あるんだ…。

 

 それが、私の二度目の不思議体験。


 当時10歳だった私は37年の時を経て、私が浄霊をできるようになり、数えきれないほどの幽霊を天国へお送りしてきた。もちろん、それまでにも、あーっ、あれ浄霊しちゃっていたんだ私!と、思うことも多くあった。だが、幽霊と話すことはなかったと思う。しかし、夢の中で話しかけたら、その夢が終わってしまい、目覚めることがほとんどだった。


 私が母親と近年、墓参りをした後のこと。

 墓参りの帰りに、あるお人を私は憑れて帰ってきていたようで、私の母方の祖母と夢で出会うことになる。

 今の時代、地方では寺ではなく、霊園に墓を建てるため、僧侶が四六時中、先祖や浮遊霊の対応をしてくれるわけではない。大方、墓荒らしにでもあったのかもしれない。寺も近年、存続の危機に陥入りだし、寺を廃業もしくは規模を縮小して、檀家の数を減らすこともあるのだから。ひどくなると、跡継ぎがおらず廃業し、土地を売却なども…。

 その祖母こそが、私が二度目の不思議体験で見た幽霊の女性だったのだと知ることになるのだった。なぜ、10歳の時の私の家にいたのかは説明がつかないが、本能的にそう感じるのだから仕方ないなと思った。

 夢の中で出会ったその女性は当時三人の子供がいたのだが、三人目の女児を新しく建てた神戸の元町付近の自宅産み、使用人に預け、疲れた体を休めていたときに数名の男達が強盗に入られ、二人で逃げた。だが、祖母は水溜まりのあるような夜道でうつ伏せに倒れ込み、自宅へと連れ戻され、水を浴衣の上から浴びせられ、畳が汚れるからと逆さに吊られ、殺されて死んでしまった。なぜ、逆さ吊りかといわれれば、新築の家、真新しい畳を出産直後の悪露で汚されたくはなかったからだ。

 生まれたばかりの女児の赤子の母親は、私に言った『●●●ちゃんは大丈夫だったのね。』と。その名前は、母の名前だった。まさか、母の名前を聞くとは思ってもみなかったのただが、平常心を保ちつつ、夢の中で裏取りをする現在46歳の私がいた。ご主人と子供の名前を確認し、祖母の姉妹の名前を尋ねると、祖母は涙した。そして、私が●●●の娘だと告げると、『そう、●●●ちゃんの…』と話す祖母に私は矢継ぎ早に、祖母の当時三人であった子供である母親の兄と母親の姉が、他界したことを話して聞かせた。確実に私の祖母で間違いがなかった。雰囲気が私や母親に似かよっており、親近感を得ずにはいられなかった。


私の母方の祖父母の話をするとしよう。

 

 神戸というハイカラな街。しかも、生田町で暮らしていたにも関わらず、根っからのボンボンであった祖父は、いくつかの職業を営んできた。ようするに会社経営にことごとく失敗していたのだ。祖母も女学校出身であったのだが、まさに頭のできの賢さと、生活力で必要となる賢さは違うといったところだろう。

 そのため、頭はキレたがひねた性格、気難しい顔に変貌を遂げた祖父は、生活費が失くなった時、祖母へ「ワシの葬式をしろ。ワシが死んだと田舎のやつらに伝えろ。」と怒鳴ると、嫌がる祖母を無理矢理、親戚連中へ祖父が死んだと連絡させたという。

 もちろん、親戚連中は祖父が死んだと聞いて、慌てて田舎から時間とお金をかけ、神戸まで駆け付けてくれたのだ。だが、死んでいるはずの祖父がピンピンして、そこであぐらをかいているではないか。そんな姿を目の当たりにしたのだ。

 アニメの一休さんに出てくる、ずる賢く悪どい庄屋さんじゃあるまいし…と思ってしまった。駆け付けてくれた親戚連中も呆気にとられながら、すでに出してしまった香典を返せとも言えず、帰っていったという。一度目の葬式は嘘であったということ。

 これは、私の母親は知らない。孫の私は親戚から聞いていたのだった。小さい頃から、大人の側でおりこうにしていたからこそ、知り得た情報なのだ。私のしっかり者の母と、私の叔母である母親の華奢で明るい姉は、出生届けなるものを子が育ってから出したものと思われる。今現在のように出産一週間以内というお約束はまだ、なかった時代であった。お役所にいく暇があれば、傾く事業を建て直すことに奔走していたものと思われる。最終的に旅館という場を最後に神戸を離れたようだ。


 そんな祖父も、私の母親が小学一年生の誕生日の日に交通事故かなにかで亡くなってしまったのだ。もちろん、死に目に母は会っていなかった。

 これが、祖父の二度目の葬式の真相であった。

 よくやるよ、じいさん!っといった感想しか私にはないが、人は人や環境によって変貌するものであるのだなといったところだ。


 生活するのが困難になった頃、城下町ともいえる場所に祖父の母親も一緒に暮らしていたのだが、学校建設のため立ち退きとなってしまう。祖父の母親は、祖父が死んでから一緒に暮らしていたが、祖父の母は、もらうものを持ってさっさたと出ていってしまった。子供三人と残された子供の母親である祖母は、途方にくれたのだった。

 そんな祖母に救いの手を差し伸べてくれた方が現れた。その方のおかげで、私の母親は中学生の兄、私の母親の一学年上の姉と四人で暮らすことになる。

 私の母親は、日中働きに出ている祖母に代わり、小学校四年生にして、学校を帰宅すると買い出しに行き、家族の夕飯を作るのが日課であった。

 当時は、米を釜戸で炊き…と、まだ、炊飯器のない時代。私の母親は、祖母の代わりにひとりで、日々の家事をこなしていたという。

 ちなみに、私の伯母にあたる私の母親の姉は、四人暮らしになってからというもの、友達の家で日中過ごすことが多く、全く手伝うこともなく、なにもしなかったと母は笑っていた。

 私の伯母である私の母親の「華奢な姉」と、「しっかりしていて、働き者の妹」である私の母親は、常に姉と妹が逆だと思われていた。

 私の母親の兄、私の伯父に関して言えば、これもまた、姉と同じように自宅に寄り付かず、常に友人宅で勉強をしたりと、忙しい中学生をしていたと私は聞いている。伯父は二番目に賢い公立高校を卒業後、家を出た。そして、華奢な伯母は、中学卒業後、手に職をつけて生きていくために、美容師を目指し、家を出た。私の母親は、三番目に賢い公立高校に入学したが私の祖母が授業料を払えなくなり、退学を余儀なくされる。しかも、私の祖母は、同時に私の母親の名前の漢字一文字を勝手にひらがなに変えてしまったのだ。理由は漢字が難しく読んでもらえないだろうから。と言った。意味がしっかりある良い感じの名前だったのに。私の祖母も性格が少々ひねてしまっていたようだ。祖母には、十人くらいの兄弟であったそうだが、仲の良かった妹がおり、その祖母の妹の性格は夢で出会った女性である私が浄霊をした祖母と同じであった。私が祖母の妹と話す時、私は私の祖母の話を聞かせてほしいとよくせがんだものだ。

「ねぇちゃんは、女学校に行かせてもらい、いい着物を着ていた。」

と教えてもらっていた。私の祖母の妹は、女学校には行かせてもらえてなかったのだ。



 思えば、私は祖母と夢で会う前になるが、同じように全身ズブ濡れのやはり揃いの浴衣を纏った男性が後ろから日本刀のような刃物で、切りつけられた亡くなった男性を浄霊したことがある。その男性は、“家内と子供たちが心配だ。”と話してくれた。

 となると、その男性と祖母は同日に暴漢、強姦にあったことが裏付けられる。

 祖父母と三人兄弟なので五人家族だ。私の母親は私の故郷で生まれている。おそらく帰省して産んだのだろう。その後、神戸に戻ったと考えるのが妥当だ。

 末っ子である一歳にも満たない女児の赤子が私の母親であるとするならば、その男性は私の祖父であり、もう一人の女性は祖母になる。そして、私の母の両親はそこで二人共、殺されて亡くなっていることになる。

 だが、祖父が事業に何回か失敗し、私の母親は祖父と祖母に連れられ、神戸を去ることになるのだが、そうなるとつじつまがあわないのだ。

 なぜなら、祖父母は生きていたし、亡くなったのは一男三女の末っ子のみであったからだ。末っ子は、神戸を去った後、城下町で生まれた。そして、赤子特有の不慮の事故で亡くなった。大方、寝返りをしたことを気がつかないまま、呼吸困難にでもなったのであろう。祖母は、私の母親に言ったそうだ。「●●●が踏んづけたから、死んだんだよ。」と…。

 私は私の母親の両親、すなわち私の母親方の祖父母の墓参りをしたことがなかった。なぜなら、日蓮宗の男性のみが参れる寺であったからだ。今現在は、寺があった跡地はマンションに様変わりしている。

 そのため、私が知る祖母は、遺影から見ているとかなり険しい顔をしており、誰と似ているんだろうか?と思うくらいで、女学校を出た割に祖母の姉妹と話し方が違うなと、祖母が生きていた時の話を聞いていて思ったものだ。どちらかと言えば、体系的に私は父親、母親どちらにも似ているが、叔母や祖母の妹に似ている。祖母の妹とは、雰囲気が私の母親や私も似ていると思う。足は、亡くなった私の伯母と同じである。性格も私は伯母に似ていた。だから、波長があっていたのだ。

 ただ、私がそっくりで自慢できるのは、私の母親の中学生時代の写真だ。父親より母親に似たかったと思う娘の気持ちは、両親を傷つけるだけなので、結婚してからは言わないようしているのであった。


 祖父の実家は祖父の同居を頑なに拒否をしていたのだ。道理は通っている。祖父は、親戚連中をだまくらかし、香典をかき集めていたのだから。祖父母に関係のある実家は、だれも受け入れてくれなかったのだろう。

 まぁ、触れずにいよう。ただ…確かに二人共に、私は話をして浄霊をした。

 日本刀で切りつけられたびしょ濡れの男性を先に浄霊し、同じようにびしょ濡れの女性を後で浄霊したのだから。


 ひとつ言えば、戦後直後だったがゆえ、同姓同名なんていくらでも転がっていた時代である。生きていくために闇市が必要であったことを考えても、同姓同名がいたとしてもおかしくはない。盗った盗られたも多かったが、それでも共存していかなければ生きてはいけなかった時代なのである…。

 そんな観点から、つじつまは横に置いておくことにした。

 そうしないと、私の母親が生まれて間もなく、祖父母が似た背格好の性格の違う人に入れ替わったことになってしまうからだ。

 実際、遡れば、江戸時代にそういったことがあったと私は近年、昔の霊魂から教えられていたので、ないこともないだろうな…と。

 織田信長のキリスト教布教、豊臣秀吉の朝鮮出兵、徳川家康の鎖国。いわゆる戦国時代を生きた人々の中でもいろいろあったそうだ。


 私の三度目の不思議体験は、父方の祖父の亡くなる28日前にタイムリープして死に目にあったことだ。


 おおよそ、信じられないことである。


 がしかし、私は祖父が亡くなる28日前、正月を迎えるために東京から実家へ家族四人でで帰省する当日の朝、二度寝した際にタイムリープしたのだ。そして、祖父の死に際の顔を見たのであった。


 あの時の怖さは、体験した者でないとわからないであろう。ただ、現代の令和時代を生きる若者たちは、怖さ自体、皆無ではないかと思う。なぜなら、幼き頃から大嫌いなサスペンスドラマや映画、アニメなど、ありとあらゆる恐怖する映像が溢れている中で生活をしているからだ。

 そのため、令和時代を生きる若者たちには、私の怖い話なんて鼻で笑うことは確実であり、異端者になるのではないかという懸念からも、口を閉ざすことを決めたのであった。その方が人間関係は円満にいくし、しゃべったもん勝ち!みたいな人が勝手に喋り出すのを、隣で興味があるように話を聞いていればいいのだから楽なものだ。


 私は、現実の厳しい世界を生きるために、不思議体験は不思議体験として、そのまま放っておくことにした。なぜなら、信じてもらえることではないからだ。体験していても、信じられない私がいる。

 

 それよりも今は、毎日の生活に追われることの方が先決であった。

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おばちゃま、開花しちゃいました?

~りかおばちゃまの日記~


 rikachima0925 


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