義兄が亡くなって6日。



私の方は少し気持ちも落ち着いてきました。





でもねぇ…



義兄の無念さを思うともう辛くて…

残された長姉と姪っ子を思うともう…



何より告別式最後、

棺に祭壇の花を入れる時、

姪っ子が棺に「うぅっ…」と肩を震わせながらしがみつき、

棺の中に大粒の涙がたくさん零れ落ち…



あの時の姪っ子の姿はこの先も忘れないでしょうね…



あんな穏やかで優しくて家族思いで、

私たち家族にも良くしてくれて、

仕事も40年勤め上げ、

これから第二の人生ってところで…



我々家族も無念でならないです。





一昨日夜、



長姉に電話しました。





詳細を言うと、



2月中旬、義兄が、

「なんかお腹のあたりがモヤモヤする」

「お腹が少し張っているような…」

で胃薬で様子見ていたそうです。



2月末、近隣病院を受診。

疑いがあったので地元の医療センターを紹介される。



3月11日、

胆道癌(胆管癌)ステージ4

腹膜播種あり手術不能

余命1年



と診断されました。



主治医から長姉には病状の詳細がされました。

本人と姪っ子には、

胆道癌、ステージ4、余命1年

は伝えたそうです。

(それ以上の厳しい現状については伝えなかったそうです)



その上で、



岡大で治療受けるか、

地元医療センターで治療受けるか、

地元医大で治療受けるか、

抗がん剤をするかしないか、



選択肢が与えられました。



義兄は、



岡大までは…遠いしそこまではせんでいい。

医療センターで治療受けます。

抗がん剤、やります。



と、可能な限りの治療を受けながら生きる選択をしました。



3/15、腹水を抜きました(1回目)。

腹水はサラサラしていて抜きやすかったそうです。



お腹もスッキリした状態で、

叔母(お母様の妹さん)夫婦の元へ行き、癌になったと報告したそうです。


(その前後でお兄さん夫婦にも報告していたようです)



本人の強い希望で、3月21日の卒業式は出席。

自身も校長としてはこれが最後になるのでどうしても出席したかったそうです。



その後2回腹水抜こうとしましたが、腹水が前とは違いかなりドロドロになっていて針も通らないほどだったそうです。



3月末、抗がん剤1回目。

恐らく使用したのはデュルバルマブ。

(長姉の説明と辻褄が合う)

主治医からは効いていると判定されたようです。



でも、



4月4日



行き場を失った腹水が食道周辺まで上がって圧迫し、嘔吐。

その後医療センターへ。入院。



4月5日



しんどそうではあるが会話は出来たそう。

長姉とも、

「氷いる?」「水いる?」

とかの会話はしたそう。

だが、既に片方の肺は真っ白になっており酸素チューブが付けられる。



4月6日



午前中は看護師とも会話出来たようで、

「この時間は通販番組が多い」

と語っていたそう。

病院からの連絡を受け、長姉と姪っ子が病院に到着。

午後に入ってからは会話は出来なくなり、

声かけに手で反応する程度。

亡くなる30分前から意識がなくなり、

午後2時過ぎ、臨終。



お兄さん夫婦も駆けつけたが臨終には間に合わなかった。





んー…



義兄にとっては残念なのですが、



「ケモ死」かもしれません。



デュルバルマブは間質性肺炎を起こすことがある。



「ケモ死、全然ありますよ。現場では全然珍しくはないです。

余命1年と言われていた人がこんな急にそうなるというのはボクだったらケモ死を疑いますね。

でもケモ死は起こるなら高齢者が多いので、こんな若い方でというのはとても珍しい。本当に運が悪かったとしか…」



と元医大勤務ザイシ(今はうちでバイトしてる子)が言っていました。



ステージ4で腹水ドロドロな患者に新薬を使うというのはやはりリスクが高かったのかもしれません。



だけど、



抗がん剤せずに亡くなったら、それはそれで、

「もし抗がん剤治療していたらあと半年は生きられたのかな…」

と後悔するだろうし。



仮に医療センターではなく医大での治療を選んだとしても、あの腹水の状態だったら半年も持たなかったと思います。





一昨日の電話で、長姉は色々思い返していました。



「あの時、医療センターではなく医大を選んでいたらどうなっていたのかなぁ…と思うことはある。もし医大だったらあと半年は生きてくれたのかなぁ、とか。

でも、医療センターの医療機器はそれはもう凄くて。

〇〇(義兄)さんの状態についても、病院が私にこまめに連絡してくれたし、面会時間も取っ払ってくれて、いつでも来てくれていいと。

私は医療センターの対応には全く不満はなくて、医療センターで良かったと思ってる…」



長姉は思い返しながらも納得しようとしていました。



私も、



「そうねぇ。あの腹水の感じだったら、

どの病院でも、どんな治療しても、あと1〜2ヶ月延命出来たかどうか…という厳しいものだったと思うよ。

本人が与えられた選択肢の中から、

地元で、医療センターで、抗がん剤治療する

と治療しながら生きるという道を選んだ。

結果は残念なものとなったけど、

でも仮に延命出来たとしても、更に衰弱していく姿を家族は見ることになるし、本人にとっても息苦しさや強い痛みに耐える時間が伸びるだけになったかもしれん。

ならば生涯現役で、本人らしさを最期で保ったまま、心身苦しむ時間が短く済んだのは良かったのかもしれん。残念で悲しいけどさ。

こついう巡り合わせだったのかなと…

残された者はそうやって納得するしかないのだろうけど。こうやって話しながらね…」



と長姉に話しました。



「お姉ちゃんは " お姉ちゃん " でいようと優等生として振る舞っている印象があるのよね。

周りに怒りや悲しみなどの負の感情を出さない、見せないというか。周りに配慮して、さ。

お姉ちゃんは本当に偉かったと思う。大変だったと思う。

今週は葬儀やその後の役場への手続きでバタバタ忙しいと思う。今は気を張っていると思うけど、土日とかふとした時に…くるんじゃないかな…

だからどこかのタイミングで(辛い感情を)出して、開放してね…少しずつでも…

落ち着いたら実家に集まろうよ。その時は私も合流するから連絡してね」



とも声をかけました。



長姉は「うん…うん…」と言っていました。



長姉は私達の前では涙を流すことはありませんでしたが、一昨日電話の向こうでは時折言葉が詰まっていたので、涙ぐんでいたのかもしれません…



でも、それで良いと思っています。





私は四十九日過ぎたらほぼ日常に戻ると思います。



でも、残された長姉と1人娘の姪っ子にとってはまだまだ…辛い日々が続くでしょう。



62歳という若さでお父さんを失った姪っ子。

62歳という若さで夫に旅立たれた妻である長姉。



たった1ヶ月で事態が急展開して、

受け入れるにはあまりにも辛すぎる現実をどんどん突きつけられ、

そんな中で突然命を持っていかれた…



こんな現実、辛過ぎるし受け入れ難いし、

悪夢を見ているような…悪夢であって欲しい…

なんでよりにもよってお父さんが…!



まだ混乱していると思う。



我々家族、身の周りの者たちで長姉と姪っ子をケアしていこうと思います。