読者&アメンバーの皆さん、お久しぶりです。リイラ☆です。
まずは皆さん、とてもお久しぶりです!今日の日まで、Twitterにはよく出没していましたが、このアメブロには、何週間か前に、プロフィールなどを変更した日以来です。私は現在、大学4年生で、残りの単位を取得したり、卒論を執筆したりと大忙しです。そのため、このブログも更新できない日々が続いています…。特に卒論は、大学生にとっての最後の課題なので、誰も書いていないような、いい卒論を書かなくてはと思い、とても悩んでいます。
締め切りの日(12月上旬)までに間に合うか、正直言ってわかりません。でも今は、4年間の大学生活の締めくくりにふさわしい、いい論文を書けるように、頑張ってます。残りの単位もあと少しなので、一気に取得できるように頑張ります!そのため、今後も更新が続くかはわかりませんが、できる限り更新していきますので、今後ともぜひ、よろしくお願いしますね。そして、休んでいるときは、ネタ切れの日か多忙の日だろうと、把握をお願いします。
さて、今日は、私から伝えたいことについて書きます。
ご存知の方もいると思いますが、私は、高校3年生の夏頃に、軽度の「自閉症スペクトラム障害」(発達障害の1つ)との診断を受けました。この発達障害ですが、最近は、テレビや雑誌などで話題となっています。なので、たくさんの方に、発達障害のことを知っていただけてると思います。今回は、その発達障害の当事者である私の、これまでの辛かった・苦しかった出来事や、将来の夢などについて書きます。ぜひ、最後までお付き合いください。
私は、22年前の8月、埼玉県の病院で生まれました。そのとき、母は40代と高齢だったので、帝王切開で私を出産しました。生まれたときの私は、あんまり泣きませんでした。でも、メガネをかけている人を見ると、泣いてしまうことがありました。そして、言葉の遅れがありました…。そのため、私が幼稚園生のときには、東京や所沢のリハビリテーションセンターで、言葉のリハビリを受けていました。今となっては、もういっぱい話していますけどね。
そして、小学生になった私は、地元の公立小学校の普通のクラスに入りました。が、私の人生は、ここから一気に変わり始めました…。1年生の頃(6年生の頃も同じ)の担任は、とても怖い先生でした。ある日の図工の授業で、作品の土台となる材料を忘れてしまい、なんとかして作品は作ったのですが、その先生に、とても怒られました。そのときは、どのような材料を持っていったらいいのかが分からなかったので、そのことで泣いてしまいました…。
6年生の頃には、私がクラスメートや同級生の子に何かを言うと、その先生に怒られていました。オウム返しをしても怒られました…。当時は、私がなんで怒られているのかが分からず、その先生がずっと怖かったです…。今となっては、その理由が分かったのですが、その当時は、ずっと分からないままでした。あとは、今まで皆さんに言ってませんでしたが、実は低学年の頃、給食の配膳係の子のマスク姿が怖く、給食の時間が少し苦痛でした。
高学年になってからは(順番が違ってすいません…。)、嫌なことや不安なことなどがあると、その場でパニックになってしまい、たとえ授業中であっても、教室を飛び出し、トイレに引きこもってしまったり、自分の机をひっくり返したりしたことが、何度もありました…。あとは、先生が他の子たちに怒ってるところを見ると、まるで、私に怒ってるように聞こえてしまい、「なんで、どうして…?私のせいなの…?」と、その場で泣き出してしまうこともありました。
それと、高学年になってからは、ちょっとしたいじめが始まりました。自分のクセや、名前のことなどでからかわれたりしました。下級生の男子からも、そのことでからかわれ、そのときは、ひどく落ち込みました…。あとは、同じ習い事をしていた、同じ小学校の後輩の子(女の子)に、なんとなく話しかけてみたとき、なぜか嫌な顔をされました。「ただ、話しかけただけなのに…。ちゃんとしたことを話したのに、どうして…?」と、私はそのとき、思いました。
小学校の頃は、比較的成績はよかった方です。ただ、体育はすごく苦手で、縄跳びの二重跳び、鉄棒の逆上がり、高いとび箱をとぶこと、マット運動の後転と側転などができませんでした(今でもできません…。)。持久走大会や運動会の徒競走でも、万年最下位か最下位の前の順位でした。水泳やバレーボールも習っていましたが、水泳はバタ足ができず、先生から「不器用だな」と言われました。バレーボールは、私は、万年控えの選手でした…。
そして、中学生になってからは、私への本格的ないじめが始まりました。このいじめは、卒業式の日まで続きました。それは、入学式を終えて、しばらく経ったある日のこと。突然、クラスや同級生の男子から、「ブス」「キモい」「死ね」などの悪口を言われました。その日から、悪口は毎日のように言われました。あるときは、「この世から消えろ」とも言われました。そして、「おまえの顔(笑ってる顔)はキモい」と言われたときは、一番心が傷つきました…。
私へのいじめは、日を増すごとに、エスカレートしていきました。掃除中に雑巾を投げつけられ、掃除した黒板をすぐに汚され、水をかけられ、私めがけてボールを蹴られ、私が配膳した給食を受け取ってくれず、給食中の音楽放送を消され、傘で身体を突かれ、メガネを壊され、チョークの粉をかけられ、私が走る姿は「競歩」とののしられ、調理実習のときには「菌が付くから」と、何もさせてくれないときがありました…。もう私の心は、傷だらけです。
体育祭や合唱祭で、自分たちの組(クラス)が負けた(賞を取れなかった)とき、私は、いつも責任を押し付けられました。「おまえのせいで負けた」「おまえがいたから負けた」と。どうして私が、責任を押し付けられなくてはならなかったのか、未だにわかりません。合唱祭の前には、「おまえは音痴だから、当日は来るな!」とも言われ、心をズタズタにされました。美術の絵画・立体作品や、家庭科の裁縫作品なども、「下手くそだー」と言われました。
あとは、私の机から物を落とされ、それを蹴られて返してくれないということもありました。そして、暴力をされたこともありました。それは、ある日の帰り道でのことでした。1人の男子が、突然、私の背中を殴ってきたのです。それも、「ビビってんだろ」と言いながら。私は、その場で倒れ、泣き崩れました。しばらく立ち上がれず、ずっと泣き崩れていました。とても痛かったです。別の日には、テニスボールをぶつけられ、ショックで1日話せなくなりました…。
私はある日、その男子たちに聞きました。「なんで、私のことをいじめるの…?」と。そうしたら、ある男子から、「他のやつはいじめちゃダメだけど、おまえはいじめていいんだよ!」と返ってきたのです。私はもうショックで、しばらくの間、立ち直れないでいました…。自殺も何回かしようとしましたし、すごく辛かったです。学校に行くのも辛くて、何回も行きたくないと思ったときもありましたが、私は毎日、学校に通いました。中学校は、義務教育なので…。
高校生の頃は、1年生は、全日制の私立高校の普通学級に通いました。しかし、その1年間はトラブル続きでした…。嫌なことや不安なことがあったときは、テスト後や授業中でも、教室を飛び出して、トイレに引きこもってしまったことがありました。また、他の生徒の私語がうるさくて、授業に集中できなかったときもありました。そして、入りたい部活(軽音楽部)にも入れませんでした。顧問の先生から、「1人での入部は、断る!」と言われたからです…。
また、合唱コンクールの委員(かな?)をやったときには、もう1人の委員の子(女子)が、ずっと私に怒ってばかりでした。ちゃんと練習をしたはずなのに、「どうして、練習を2回で終わらせたの?」と、電話で怒ってきたのです。私には、何のことだかわからず、受話器の向こうで泣きました…。なんとか、合唱コンクールは成功したのですが、もう辛かったです…。その子は、合唱コンクールが終わった後も、日常的に私に怒ったので、とても怖かったです…。
そして、一番辛かったのは、私が、女子同士(チアリーディング部)のケンカを見てしまったときです。そのケンカは、とても荒かったんです。荒い声で言い争い、私の記憶が正しければ、殴り合いもしていましたね…。そのとき私は、「私のせいで、こんなケンカになったんだ、ごめんなさい…!」と、その場でパニックになってしまい、「どうせ私なんて…!」と、首つり自殺をしようとしました。1人の女子が、ケガをしてしまったのを見たのも、辛かったです…。
こんなトラブルが続き、2年生の進級と同時に、私は、通信制の高校に転校しました。私の発達障害が発覚したのは、その高校の3年生の夏頃でした。精神科のクリニックで、先生から、「あなたは、自閉症スペクトラム障害であるといえますね」と言われたのです。そのとき、「今までの生きづらさは、これが原因だったんだ…。」と、まるで、自分の背中にあった重い岩のようなものが、一瞬にして消えていった感じで、私は、安堵の表情になりました。
私は、発達障害の当事者ですが、そんな私にも、ひとつの夢があります。それは、フリーアナウンサーになることです。私は、テレビやラジオで活躍するアナウンサーに、ずっと憧れていました。テレビ局のアナウンサーには、もうなれませんが、フリーアナウンサーになって、テレビやラジオを通して、障害を持つ方や、災害の被災者の方、そして、今を生きるすべての皆さんを元気にしたい。そして、生きる勇気を与えたい。そう思うようになったのです。
目標は、小林麻央さんのような、フリーアナウンサー・キャスターになることです。彼女は、私に、テレビを通して、生きる勇気を与えてくれました。今は、もう亡き人となりましたが、それでもなお、私の永遠の憧れの人です。そのためにも、今は、アナウンススクールで基礎・応用を学んで、半年後には、オーディションを突破できるように、頑張ります!発達障害を抱えてても、できることがあるということを、皆さんに証明したいと思います。頑張るぞ!
長くなりましたが、今日はこの辺で。コメント、待ってます。