わたしの今回の入院するにあたって

この義母と主人の病気についてを

書いておこうかな。。


わたしの夫、なんだかんだ20年くらい前から

あれ?と思う事が多々あった。


それは生前に発症していた義母の様子から

間違いない、と思えるまで時間はかからなかった。





大阪で小料理屋さんを1人で経営していた義母は

わたしと夫が結婚した当時も

バリバリ働いていた。


でも、徐々に認知症が進み出してきた、と

京都に住む義妹から連絡を受けるようになり

店の中も伝票、仕入れもずさんになってきていた。


店を開ける事ができず

義妹が京都から時々様子を見に行っていたけど

さすがに手に負えなくなっていて

義母が1人で暮らすのも限界なのだ、と。

義妹が面倒をみるといっても自分の生活もあるし

これ以上は無理だ、と。


こちらに同居といっても

わたし達は埼玉に住んでいて

まだ幼かった子どもがいるし

どちらにしても難しい問題であることには間違いない。

これから先の事をどうするか

話し合いをしていた矢先のことだった。


納得させて病院に連れていくのも大変であるし。



ある日の夕方、一本の電話が自宅に入った。

新潟の警察からだった。


なに?どうした?


恐る恐る話を聞いてみると


白髪混じりのおばあさんが新潟の駅で

うろうろしている。

会話が成り立たないが話の断片から

よく聞いてみて整理しつつ

調べていたらそちらに行き当たった。

もしかしたらお身内にこんな方は

お心当たりはあるか?


と聞かれた。


それはまさに義母だ。


主人は会社にいるのだけど

義母のそれまでの詳しい状況は

わたしより主人の方が詳しいかと思って

まず主人と連絡を取って事情を話し

警察と話を進めてもらった。


それから主人はすぐに新潟に出向き

その日の夜、義母と主人は

新潟から我が家に帰ってきた。


時期は春先で夜はまだまだ肌寒い。

彼女は素足にサンダルで

薄いセーターとズボンのみだったという。


とにかく開いている店で

靴下とスニーカーを買い履かせた。

上着も暫時的にカーディガンを買って着させた、と。




大阪から新潟までどんなルートで行ったのか。

自分の名前は言えるけど住所はわからず

話す言葉が大阪弁なのでその辺りから

店の名前はわからないが店をやっていた事と

主人の名前の断片から

それだけでうちの連絡先が判明。


昔は電話番号は電話帳に載せるのが

まだ大多数で主流だったけど

ただ、うちは仕事柄もあって

電話帳には載せていないし

今でこそネット、AIなど駆使しての身元の捜査は

たったそれだけの情報でも

簡単にわかるのかもしれない。


けど、当時は30年以上の昔で

警察の捜査能力には驚いたなー。

よくここがわかった、と当時びっくりした。




そして義母は

想像以上に進行していた。

主人の事はわかるけど

わたしのことはまるでわからず。

結婚してすぐに札幌転勤になってしまい

すぐに妊娠、出産でまた転勤。

なかなか会う事もできず。

また義母とわたしは

小さなわだかまりがあって

わたしも人見知りとコミュ力不足のせいで

なかなか打ち解けずにいた。

そして子どもも小さく

申し訳ないけれど

義母の事を考える余裕がなかった。



我が家に来た義母は

さっき食事をした事を忘れ

食べ物を物色するために何度もキッチンに現れて

気がついたら2合炊いていたご飯が

全部なくなっていた。

またある時はガスコンロの火を

永遠につけようとしている。

ずっとカチカチカチカチ…

こんな事もあろうかと

元栓は閉めていたからよかった。。


またテレビ台の上に

黄色い花を咲かせた菜の花を飾っていたのだけど

食べられちゃっていた。


ぶつぶつ言いながらむやみやたらに

部屋の中を絶えず歩き回るその姿を初めて見る光景。

なかなかのホラーで衝撃だった。

これが認知症というものなのか。


何ヶ月かうちでみていたけど

子どもが小さい事が大きな要因で

幼稚園の送り迎え、買い物もあり

外出しなきゃ、だけど出かけられない。

送り迎えはご近所のママ友さんに頼み

買い物は週末主人にまとめ買いを頼む。


が、突発的な子どもの用事は必ず起こるので

主人も仕事があるしそうそう休めない。


様子のおかしいおばあちゃんの行動が

年長の長男には恐怖を覚えるようになってしまい

義母を見たら怖がるようになってしまった。

大丈夫だよ、と話すも

4月から入学するための準備していた机や

ランドセルをむやみに触り

やめて、と言っても聞いてくれず

ぶつぶつと独り言を言う義母を怖がっていた。



これは限界だな。

わたしも。息子も。夫も。




どこか預けられるところはないか。

人づてや役所に電話で聞いたところを

片っ端に電話をかけまくり

犬や猫の動物を預けるとは訳が違う、と断られる。

片っ端から断られた。

今日の今日で入れてもらえるところなんてない。


ほぼ泣き落としに近い状態で頼み込んだところが

当時1日2万円でとりあえず預かるが

暴れたり面倒見切れない時は

すぐに引き取ってもらう、との約束で

お願いする事になった。


お金はかかるが家庭内は崩壊寸前で疲れ果て

もうそんな事は言ってられない。


ひとまず預かってもらって

我が家にも久しぶりに平穏が訪れた。


義母はそこではとりあえずウロウロはするけど

暴れる様子はないようだ。

しばらくそちらで様子を見る事にした。



とは言っても今後のことを考えなきゃいけない。

金銭的なことを考えると

そこでそう長くは預けられない。


行政機関の福祉課に相談。

今でこそ、情報も豊富だけど

当時は介護保険もなくほんとに手探り状態だった。


まずは今の義母の症状、認知度を

しっかり把握しなきゃいけない。


外出許可をもらい、認知症専門の病院へ。

いろいろ検査をした結果

若年性のアルツハイマー症だった。

義母はまだ57歳。

アルツハイマー症発症にしては非常に若い。

そして、介護保険も今のように

充実はしていないし

57歳の義母はまだ使えないのだ。


少し費用の安い老人病院に入ってもらう。

そこの環境は正直ひどいものだった。

言うことを聞かない患者は拘束される。

それは入る時に納得していたものの

他の患者さんのそれを見るのは心が辛い。

拘束される前には連絡が入る。

とうとう、うちもそうなってしまったか。


2年弱くらいだったか。

そこに入ってもらっていた。


でもここもそう長くは入れられない。

60歳を超えて介護保険のいろいろなサービスが

使えるようになっていたけど

なにから手をつけていいのかわからなかった。


ただ、そこのケアマネージャーの方に

これからの方針についていろいろ教わる事になり

まだ30歳にもならないわたし達夫婦には

知らない事ばかりでこれはありがたかった。


この老人病院にいる間

老人保健施設の入所の手続きを取り

空きベッドが出た、との事でそこへ入所。


そこでは穏やかに過ごしていたようだったが

当時は3ヶ月経つと一度そこを出なければいけない。


3ヶ月過ぎたらまたあの老人病院。

で、保健施設に空きが出来たらそこへまた入所。

後から聞くとその病院はこういった隙間の

受け入れ先に対応していて

だからやむなく拘束も、になっていたのかなぁと思う。


3ヶ月後の度に、車であちこち移動する。

わたし達は心底疲弊していた。


ただ、車で移動している時の義母は機嫌がいい。

外の景色をずっと眺めていて時々にこやかに

誰もいない誰かと話をしてる。

ちょっと穏やかで優しい平穏な空気が流れる。

昔から義母は車に乗る事が好きだったらしい。


そんな中、義母の介護認定が降りた。

「要介護5」だった。

やっぱりな。

要支援、要介護1〜5まである中の

1番介護の重い判定だった。


そんな生活が3年ほど続く中

申請していた

特別養護老人ホームの空きが出た。

3ヶ月の見直しもなくそこは半永久的に入れる。

言うたら終の住処的な。

本人はもはや何もわかってないけどね。

自分たちの自治体にある特養ではないけど

隣の市の特養に地元の自治体のわずかな枠があり

そこに空きが出たらしく

少し遠いけどそこはどうでしょうか?と言われ

二つ返事でそこにお願いした。


昔から店を切り盛りしていて

仕事柄立ち仕事だったから

足腰はほんとに丈夫で

そのホームでもいつも敷地内をうろうろ。

敷地内だけにおさまらず

来客が来た一瞬の扉が開いたその隙に

外に出てしまい、何度か徘徊して迷い老人となり

自治体のアナウンスのお世話になる事もあった。


おかげさまで大きな事故には至らずだったけど

前は夜に国道のグリーンベルトを

サンダルで歩いているところが見つかったり

職員の方には本当にご迷惑をおかけした。



義母のために頑丈な入り口の扉を新設してもらい

玄関の扉には入居者には届かない

高い位置にあるもう一つの鍵をつけてもらう。

出入りするのも大変になってしまった。


申し訳なさでいっぱいだけど

すぐ対処してくれるのはありがたいよね。


そんな時を過ごすうちに体力も少しずつ落ちてきて

ただの風邪も拗らせて肺炎になったりする。

病気になるとその特養と提携している病院へ転院。

よくなるとまた特養に戻る。

そんな事を繰り返していくうちに足腰は弱くなり

車椅子の生活となっていく。

それでも季節の催し物などには積極的に参加して

(理解しているのかは謎だけど)

ニコニコとしていた。


それでもだんだんと回復するのにも

時間がかかるようになった。

そのうち病院にいたまま特養に戻る事もできず

最期はその病院で息を引き取った。




義母の療養中、わたしの実母の胆管がんが見つかり

奈良に住んでいた実母の看病に毎週末

新幹線で通っていた時期もあり

またそれは別の機会に。




そんな義母を間近にみてきていたわたしに

同じ事が主人にも起こるとは。