ホームの力借り 絆深める

 

「い、い湯だな、はははん」。風呂場からいつもの歌声が聞こえてくる。じいちゃん、きょうも喜んどる―。

 近藤智子さん(55)=広島市西区=は、父誠さんが近くのグループホーム「古田のおうち」で暮らした日々を思い返す。86歳で亡くなるまでの1年9カ月。「ここはええよー。あんたも来んさい」。そう言ってたっけ。

 最期の半年、父は自分で食べるのが難しくなった。智子さんは毎日のように通い、食事介助を続けた。食べなくなったのは昨年1月、旅立つ前日。

 夕方に「じいちゃん、もうしんどい? ばあちゃんのところに行きたい?」と聞くと「うん」と。そして父は逝った。夜中の2時、眠るように。

 「穏やかな顔で。悔いはありません」と智子さんは語る。「ここで預かってもらえたから、私は最期まで父と濃い関わりを持てた。でも、あのまま家でみていたら―。父を憎んだかもしれない」

 実家で暮らしていた父が、一人娘の智子さんの家に移ったのは80歳のころ。認知症が進み、頻繁に外を出歩いては家に帰れなくなっていた。

 トイレに行く間に父はいなくなる。一人にしておけない。智子さんは夜も眠れず、頭痛と吐き気に襲われた。「1カ月で限界で。私の方が倒れそうだった」

 施設の話を父に切り出すと、穏やかな父が手元にあったティッシュケースを床に投げつけ、声を荒らげた。「何でそんなとこ、行かんといけんのか。人の気持ちが分かっとらん」。あのときの切なさは、今も胸の奥にしまってある。

 いくつかの施設や病院を経て、2010年4月に古田のおうちへ。食べて、散歩して、湯船に漬かって…。「普通の暮らし」ができたからか。他の施設では「早く帰りたい」と嫌がった父が「ここはええよー」と気に入った。

 智子さんが行くと、父の顔がぱっと輝く。ホームに自然と足が向いた。必要とされることがうれしくて。「ホームの力を借りて、思う存分、介護させてもらった。最期になって父との絆を感じました」と、智子さんは感謝する。

 「人生の幕をどこで閉じるか。家が絶対じゃない」。古田のおうちを運営するNP0法人もちもちの木の理事長、竹中庸子さん(53)は断言する。

 長生きで認知症の人が増える一方、支える家族は人数が少なく、共働き。その高齢者が家に居続けたら壊れてしまいそうな家族に、何度出会ってきたことか。

 それだけじゃない。「私自身、夫をみとるのが苦しかったから。家族だけじゃ、窒息してしまう」

 夫寛さんは08年9月、56歳で亡くなった。がんだった。当時、竹中さんは自宅で寛さんに寄り添った。マンションの一室。重苦しい空気が動かない。「石の棺の中にいるみたいでね」。多くの人をみとってきた。なのに、夫と二人、狂いそうだった。しんどさを我慢し合っていた。

 その夫がマンションを訪れた医師と看護師の前では、涙を見せた。そのとき思った。「第三者がいないと駄目なんだ」と。寛さんともちもちの木の施設の一角に移り住んだ。最期のときは、みんなと過ごした。

 「その人が安心できる場所は、どこなんでしょうね」。竹中さんはほほ笑み、問い掛ける。(平井敦子)

 死ぬのは病院が当たり前になった時代。特別養護老人ホームや介護老人保健施設など施設で亡くなる人は20人に1人と少ない。私たちは介護施設で望む最期を迎えることができるのだろうか。中国地方の施設でみとった人や支えた人を追う。

施設でのみとり 少なく

 介護保険による施設で、みとりまで寄り添った事例はどれくらいあるのだろうか。

 厚生労働省の2010年の調査によると、特別養護老人ホームの退所理由のうち、施設で亡くなった人は29・7%にとどまる。一方、医療機関に移って死亡するか、そのまま入院する人は計62・9%と多数を占める。

 介護老人保健施設では、施設で亡くなった人は5・1%。日本認知症グループホーム協会の12年の調査では、認知症の人が暮らすグループホームで亡くなった人は11・9%。いずれも、容体が悪化した場合は病院に搬送される例が多い。

 厚労省は、団塊の世代が80代になる30年の推計死亡者数は159万7千人で、10年より40万人増えると予測する。迫る「多死社会」。みとり先の確保は喫緊の課題で、介護施設も例外ではない。

 広島県老人福祉施設連盟の平石朗(あきら)会長は「老老介護や一人暮らしは今後もっと増え、在宅生活が難しい人も多くなる。施設は高齢者が生活する『ついのすみか』としての役割が重くなる。態勢づくりを急がなくてはならない」と話している。(余村泰樹)