痛み抑制 生活の基盤に

 最期のときを家で過ごしたいと、国民の6割以上が望んでいる。どうすれば願いはかなうのか。自宅で療養する人、支えた家族を追った。

 酒と歌を愛した父さんを、にぎやかに送りたかった。昨年4月、広島市西区の自宅で昏睡(こんすい)状態になった末廣恭雄(やすお)さん(当時74歳)のそばには、家族4人。夕食を囲み、ビールを飲みながら、旅立つ姿を見守っていた。

最高のぜいたく

 最後に贈ったのは、恭雄さんの十八番(おはこ)、「長崎は今日も雨だった」。長男正伸さん(46)がギターを奏で、妻正子さん(69)たちが歌った。ねえ父さん、聞こえてますか。今までありがとう―。心で呼び掛け、声を響かせた。

 恭雄さんは末期がんと分かってからは治療はせず、自宅で過ごすことを選んだ。2011年秋から半年。家族みんな「本当に家でみられるだろうか」と不安だったのに、振り返ればその生活が「最高にぜいたくじゃった」と思えてならない。

 まず、痛みをコントロールできたことが生活の土台になった。恭雄さんは一晩中、「体の向きを変えてくれ」と訴えることもあった。正子さんは、一睡もできず、思わず夫の手の甲をたたいてしまった夜が忘れられない。

 支えてくれたのは在宅医療専門のコールメディカルクリニック広島(西区)の医師たちだった。麻薬や局所麻酔を組み合わせると、難治性の痛みを抑えられるようになった。毎日を楽しめるようになった。

 もう少量しか飲み込めなくなっていた恭雄さんは、ビールを注射器で口に入れて味わった。正伸さんのギターに乗せ、自慢の歌も披露。コールのスタッフが行きつけのカラオケ喫茶でカラオケ大会を開いてくれた日は、大声で歌い、心底うれしそうだった。

 コールの古谷和久医師(45)は実感している。「病院は痛みの症状を取り除く『引き算の緩和ケア』しかできない。でも家なら、自分の好きなことをして痛みを忘れられる『足し算の緩和ケア』ができる」と。

ひ孫胸に抱いて

 広島市南区の花本敏子さんは83歳だった11年10月、12日前に生まれたばかりのひ孫、悠莉(ゆうり)ちゃんを胸に抱いたまま逝った。「穏やかで、まるで人が生まれるときのような感じでした」。一緒に暮らしていた一人娘の志津子さん(57)は温かな気持ちで、母の最期の日を思い出す。

 敏子さんは病院嫌いで、末期がんと分かっても入院せず、自宅で過ごしていた。信仰するキリスト教の教会に通い、遊びに来たひ孫をあやし…。自分のペースを貫いた。

 血圧が下がり始めた日の翌朝、かかりつけの小西太医師(47)=中区=を呼んだ。小西医師がベッドに横たわる敏子さんの手を握ると、安心したのか意識がもうろうとなり、下顎を動かす呼吸に変わった。

 「亡くなっていっていますね」。医師は静かに説明した。「葬式の時に歌って」と頼まれていた賛美歌「まもなくかなたの」を、家族10人で合唱した。あの美しいメロディーが今も耳に残る。

 どう生きたいのか、しっかりと意思表示した母を、志津子さんはまぶしく思い返す。「母はきっと、思い通りの最期を迎えたんだと思います」(余村泰樹)

6割以上が在宅希望

 厚生労働省の終末期医療に関する2008年の調査では、6割以上が終末期の療養場所に「自宅」を希望した。一方、実際の死亡場所は、1950年代前半までは自宅が8割以上だったが、70年代には自宅と病院・診療所の割合が逆転。11年は病院・診療所が8割近くを占め、自宅は1割強にとどまった。

 広島在宅クリニックの小西太医師は「人が死んでいく様子を見たことがない人が増えた。家でのみとりを望んでもイメージが湧かず、実際の選択肢から外れてしまう人がほとんど」と指摘する。

 ただ、在宅医療を支える医師も増えてきた。「何が不安なのかを相談し、一つずつ解消していけばいい。やってみたら大丈夫だと、思い通りの最期を過ごす家族は多い」と話している。