革命的文学を新規開拓する、ネオ新感覚派の表現方法。作家山畑健の文化的ブログ

革命的文学を新規開拓する、ネオ新感覚派の表現方法。作家山畑健の文化的ブログ

文芸復興が主目的。ネオ新感覚派を求める、文学、読書好き、の人のための文化的ブログ。
革命的文章表現をテーマに、その創造と、その支援を目的としたい。
山畑健と言う本名で、キンドルで本を出している。文学、読書に関する底辺拡大の行動として、ブログを選んだ。

キンドルで十数冊、本を出しています。お勧めは、『ジキルとメルシー』が処女作で、あと、『ソウイウモノニナリタイ』、『壁画』です。他は、あまり、自分では、納得できていません。
それと、他のブログも読んでみてください。
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 Twitterでやる話だが、ネタがないので、ここに書いておく。

 優勝  ヤクルトスワローズ

 二位  ヤクルトスワローズ

 三位  ヤクルトスワローズ

 四位  ヤクルトスワローズ

 五位  ヤクルトスワローズ

 最下位 ヤクルトスワローズ

 正直、どれもあって、予想がつかない。

 

 優勝  この辺りで、久しぶりの優勝が見たい。ヤクルト戦士が、歓喜に湧いているシーンをたくさん、来年は見たい。正直、そろそろ運が向いていてもいいかな? と思う。よって、願望よりの、優勝。

 二位  せめて優勝争いをするシーズンであってほしい。

 三位  ホップ、ステップの年。高津監督、三年計画の二年目。Aクラスに入れれば、順調。

 四位  健闘と言える。今年の成績からすれば、十分飛躍している。

 五位  三年連続最下位を脱せられるだけで、十分。それぐらいの希望は見えるか? 

 最下位 計算できる投手がいない。打線は良くなるかもしれないけれど、投手の可能性は、来年から。順当な順位、とも言える。

 

 来年は、未知の投手力に期待がかかる年だろう。若い先発候補が増えて、可能性から、実績へと移れるか? の年。毎年、何かを与えてくれるツバメ戦士。そろそろ、投手力のチーム、と言わせたい。あまりの楽しさに、ひっくり返るとし、であってほしい。

 目標。

 あの丘の旗。

 風の吹く方。

 僕らは、追いかけ、探り、見つけては、やがて、自分がなる。

 それが、真の目標。

 寒々しい、夜の海は星になり、

 秋の題目は、実りの穂になる。

 烈火のごとく怒りし明王。その剣は、大地を割り、その盾は、大波を遮る。

 世界は、目覚めれば、すべてが、何かの何かへのしるし。標。

 寄る辺なき、迷い子の、導き。

 誰もが、世界に取り残され、失った、未来に、彷徨おうとしている。

 愛される如く、愛しましょう。

 そう、神も、仏も、悪魔も、魔王も、頭を垂れている。

 何かをやるから、何かを興せるわけ、だ。

 何かが興るから、また、次なる目標が生まれるわけだ。

 愛ある戦士よ、君を求めたり。

 君に、願いをかけたり。

 さァ、風になれ。

 光射せ。

 いざ、君が夢、そのものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 高い場所。ここは、世界の高地、だ。高台、だ。

 下を見ると、高さにおののく。けれど、ここへ来たからには、ここで、果たさなければならないことがある。

 というより、まずは、下の人を引き上げることからだ。そのうち、水害で、下まで飲まれる。高台に、避難している、わけだ。だから、下の人を、引き上げなければならない。より高い場所にいれば、安全な暮らしができる。

 見下ろすと、有象無象の民衆。どれから、救えばいいのか? なんて分からない。

 大声をかけて、避難を呼び掛ける。

 個性だ。誰でもない、君でしかない個性だ。それを持て。君でしかないものを持っているなら、まず、安全が与えられる、だろう。君が、君でしかないことに、世界は弱い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 罪を浄化する、とは、やはり、人は罪を犯すのか? 人殺し、盗み、その他もろもろ、分かりやすい、罪らしき罪を犯さなくても、罪なのか? それとも、天国に行く切符として、それほど清潔でなければならない、と言うことか? 

 そんなことを書いて、今日も罪を犯す。

 嘘つき、と言われ、詐欺師、と言われ、悪魔と言われる。

 神が、嘘つきじゃなかったためしはない、だろう? 悪魔はいない、神がいるだけだ、のはずだ。否定されるべきは、作り主に他ならない。色々、文句はあるが。

 否定を受ける。

 まさに、煉獄らしき、世界だ。

 罪はまだ、犯したことがない。自傷も罪なら、ある、と言わなければならない、が。それ以外の罪は犯したことはない。

 ただ、今後犯さない、とも言えない。人生で、普通に、分かっていてもか? 失態を侵しそう、なところに来ている感はある。正確には、連れてこられた、が正しいが。文句は、色々ある。

 それでも、やってはいけないことをやれば、それは当然罪、だ。仕方ない、で済むことでもない。罪を犯せば、火で浄化してもらうしかない。何て、糞システムだ。と僕の結論は、そこに終着するが。

 さて、心が、壮大に、荒んできたところで、また、罪を犯すか? またではないな。今度こそ、罪を犯すか? だろうが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 生きる、を考えて生きている人間はいない。生きるは、そもそも考えることではないからだ。生きるは、体感すること。実感すること。判断することだ。

 そうすると、考えるばかりやっている僕は、あまり、生きている、とは言えなくなる。そうかもしれない。ただし、考えるにも、体感はあり、判断は常にある。その点は、生きるに直結していて、実りある学、をくれる。

 だから、考える、だけは、こうして、暇を持っては、実際行っている。それは、生きるに、生きているに、値する、感覚を得られるものだ。

 もののけ姫で、宮崎駿は、生きろ、と言った。

 そうだ。生きよう。生きていけ。生きろ。

 僕も言う。

 しかし、肉を食わない人生も、そうはない、だろう。そこには、快楽があるわけだが、殺生をしない人間はいない、と言うことにもなる。仏の道、以外は、それを禁じていない。しかたがないことだ。感謝を忘れなければ、と言うが、人生の忙しなさが、そこまで余裕を与えない。今日も、いただきますを言わず食う人は、たくさん、僕を含めているだろう。

 生きるが、他を殺すであることも、認めなければいけない。しょせん、害ある生き物、罪深き生、ということになるのだろうか? 神は、そんな世界に、人間の世界を作り上げた。初めから分かっていたことであり、けれど、だからといって、どうそれに当たるのか? は、そこにいる人間が、どう体験とすることか? の問題になる。できるだけ、人らしい人、でありたいと願い、生物として、正しい、輪廻を進みたい。

 そう、課題を課すのは、悪いことではない、だろう。確り、受け止めなければ、ならない。

 とは言え、今日も、肉をできるだけうまく食おうとする毎日だ。愚か、であることは承知だ。

 何ができる? 

 億ある、世界論の中で、それを考えることだけは、止めず、進めていこう。僕にできることは、それぐらいだからだ。

 生命を感じる無限の凄さとは、毎日を繰り返すことだ、と誰かに教わった気がする。何気ない毎日でも、感謝はあり、同時に喜びはあり、美しさも、また、儚さも、すべて、諸行無常で、変わりゆく中の、不変であり、永遠なのだ、と知る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大海を知らず。

 だから何だ? と言う。

 ここに世界ならある、と言う。

 井戸で生きた世界は、日の光にも会うし、肥えた蛙になれるだけの食い物もあるし、仲間もいる。

 みんな、井戸の中の話だ。奈落の話、ではない。

 大海に出たって、最初に知りうる感情は、恐怖、だろう。

 自由への、広大への、好奇心ではなく、どこへ行けばいいのか? どこまでも同じ景色だ、への恐怖、だろう。と言う。

 恵まれている、とは、今与えられたものに、不満はない。感謝しかない、の情だ。

 僕は、そこで、大海を泳ぐ鮫、井戸の中を知らず、と言う言葉を編んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 重力がある。人は、あるいは物は、下に引っ張られる。じゃなきゃ、地球は、世界は成り立たない。

 そこで問題だ。天国は、どこにある? 

 地底、下、と答える人は少ない、だろう。下は基本地獄だ。地の獄であり、天の国であることが、何より、それを示している。天だから、自然と、空の上にある、と教わってきた。

 けれど、人は、下に引っ張られる。それが、道理、だ。

 また、水も、恵みの水も、上から下に流れる。それが恵、となる。

 とは言え、上に上がるものもある。気体で軽ければ、上へあがる。水蒸気でさえそうだ。それが雲になり、雨をもたらす。

 人は、生まれたら、どこを目指す。上へ、上へ、目指すのではないか? 下へ、下へ、潜ろうとする人は少ない。ダイヤモンドも石油も、地中に埋まっている、と言うのに。

 金の成る木は、地下に、潜るに、地獄に近いところにある。

 学びは、大切だ。真理なるものを教えてくれる。これも天国へ行くため。上へ、上へ、行くため。

 人生は、緩やかな坂道、だという。やはり、登っている。坂道は、下るのは楽だ。落下には、ある種の爽快感がある。スカイダイビング。それで金儲けができる。

 それでも塔は上に伸び、人は、高さに魅了された。宇宙がある前、上には、天国があった。いや、今でも、天国は、上にある、だろう。

 天国を欲する気持ちは、欲じゃないのか? 罰は受けないのか? 

 とりあえず、そんな使命は与えられていない。上へ、上へ、天国へ、天国へ、目指して、悪くない。外国のバッターが、ホームランを打った後、天上を指すように。

 さァ、登れ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 プレイステーション5のYouTubeを見ている、と言った。確かに、壮大なグラフィックに、圧倒されて、その表現できる世界観の巨大さに、心躍らされるものがある。けれど、何時間も見ていると、実際、自分がプレイしてみよう、とは思わない。なぜか、巨大な虚しさが、襲う。子供の頃は、アレだけ、一度クリアーしても、何度も何度もやって、心地いい気持ちが持続できたのに、今は、正直、虚しいだ。

 それは、自分の実りになっている感じが、低いからだ、と推測する。ゲームが、人間に、叡智を与えることができない、とは言わない。けれど、自分で、何か、書いてでもいる方が、自分の血肉になっている感じはある。

 スケールは、壮大でも、しょせん、架空は架空だ。そこに、視聴後感の虚しさがあるのだろう。ただ、同じ架空でも、漫画を読むことは、実際の生きていく感じに、還元できると、感じる。この違いは、やはり、プレイと、読むの違い、だと思う。

 プレイ、なのに、なぜ、栄養素にならない? それは、重大な問題だ。まだ、ゲームという創作基準が、人生の利器として作られていない、という観点の違いがあるのかもしれない。そこは感じる。漫画は、それに対して、人生の利器としての創作がなっている。

 あとは、自分の年齢の問題だろう。老いた、と言うことだ。正直、ゲームをやっているほどの時間がない。暇な時間なら、腐るほどあるのに、ゲームを、あるいは、架空を、プレイする時間はない。野球は見る。毎シーズン、ある。一度優勝しても、次の年はまた、始めからだ。そんなものに対する時間はあるのに、ゲームにだけない、というのはおかしなものだが、なぜか、魂が、そうなっている。吸収を拒むように、受けつかなくなっている。まさに、あの少年のころを思えば、老いたのだろう。時間がないのだ。ボーっとしている時間なら、あるのだが。

 けれど、今の若者は、どんどん、ゲームをやり込めばいい、と思う。ゲームに、ロマンを感じられる限り、やり続ければいい、と思う。僕のころより、速度の速い、人間が、誕生することだろう。楽しみだ、と言っている。

 5が、もっと可能性を秘めた利器であることは事実だ。その可能性をどれだけ、利器として引き出せるか? が、創作人が、勝負していくべき場所だろう。もっと、色んな意味で、多角的に、プレイのステーションにならなければいけない。

 ただの、物語の後追い、だけにはならないでほしい。

 ゲームで、人生観を吸収できないのは、自分としては、自分に残念だ。

 最後に、今気に入っている言葉を書いておこう。

 世界は広げるためにある。内に籠るためにあるものではない。外向不内向だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 YouTubeでプレステ5のゲーム配信など見ている。感心することばかりだ。今のゲームと言うものはここまで進化していたのか? と。シーズンを越えて、シーズンがやってきている。いったい、この世代に生まれた若者は、どこまで進化するのか? 未来が、楽しみでしょうがない。明らかに、世界は、面白さの方に向っている。

 YouTubeに自分が出ること。或いは、Twitterを持つこと。Instagramをやること。ブログもいい。ずっと、未来を描いていたが、このプレイステーションと言う、遊び、プレイのステーションが、あきらかに、革命を、これから、6、7、8、と進むにしたがって、興していくだろう。老兵は、去るのみだ。

 きっと、この恵まれた時代に生まれた若者が、また、もっと革命的創作をなしていくことだろう。どんな人間になっていくのか? 想像もつかないが、ピッチャーなら、180キロを投げるようなものだ。人の想像力の限界を競う世紀が、そこまで来ている。とは言え、まだ、入り口に立っているだけにも思えるから、凄まじい。今後の世紀を、休むことなく、革命を興し続けて行ってほしい。

 神の凄まじさは、人の見たことのない景色をもうすでに圧倒的速度で、幾つも視界にとらえていること、だと思う。

 ピコピコ世代は、寂しいな。というより、彼らの躍動に期待しよう。受け継がれたバトンは、確実に、人を良い人に向かわせているから。

 コロナ、が心配だ。ここに来て、感染という弊害が、人間の足を止めてしまった。面白さしかない未来は、面白いがために、なかなか、そればかり、と言うわけにはいかない。太陽のバランスが、働いているようだ。

 そして、いつか起こりうる、南海トラフ地震、被害が最小限に食い止められればいいが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自分がどうなりたい、を夢見たことはない。

 もうすでになっていたからだ。僕は、何物にもなれた。

 君は、自分が未来なりたいものを夢に見るか? 

 僕が夢見ることはいつも同じだ。

 世界を、どうしたいか? 

 この夢を見るから、なにも叶わない、とも言える。

 世界を、勝手に、こう変えてもらっては困る、人が、空想の世界にもいる。

 彼らは、色んな手を使って、阻止してくる。

 世界全体が、幸せになることだって、どれだけ非道を承知でも、阻止してくる。

 世界は、変えてはいけない、を習う。

 なら、夢見られないじゃないか? に僕は行き当たる。

 夢見ないことさ、と軽く言われる。或いは、いつまでも夢見ていろ、と言われるのかもしれない。

 夢は見るよ。夢見ていないと、生きていけない生き物だから。

 そして、その夢は、自分がどうなりたいには、落ちない。

 少年の夢は、何も間違っていない。

 ただ、悲しいかな、世界が、矮小すぎただけのことだ。

 世界は、少年が、生涯をかけて夢見るには、あまりにも、小さい。

 僕は、習いたくないことを教わって、空を仰ぐ。

 伏龍、起こり、大空を仰ぐ。