アオイハルが終わりましたね。

えぇ、呪術廻戦のアニメの話です。

 

この漫画において夏油傑をどう捉えるのかというのは、

結構重要なんですが、

私は闇堕ちしたとは思ってないです。

 

夏油傑は、夏油傑であるが故に、

あの道を選んだと思っています。

優しさや生真面目さ、そういった彼の性質が

あの結果を選ばせたのだと思います。

 

夏油さん好きの人の中には、

九十九由基さん(呪霊が無くなるにはどうしたら良いかを研究している呪術師)を

戦犯扱いする人もいるんですが、

私は、そうは思いません。

彼女は、フラットな視点で世の中を眺めた結果を述べているだけ ですし、

彼女なりにどうしたら今の呪術界を変えることができるのかということに、

真摯に取り組んでいます。

 

夏油さん相手に授業という形で、

今までの彼にない考え方を伝えたのも、

さまざまな価値観があるし、

そのどれを選んでもいいんだよ、

善悪は大したことでは無いんだよ

という彼女なりの優しいメッセージだったのかなと思ったりします。

 

結果として、彼は最悪の呪詛師となってしまいました。

皮肉なのが、

呪術師仲間に死んで欲しくないから世界を変えるという大義が優しさが、

彼を最悪の呪詛師たらしめたということです。

優しさとは一体なんなんでしょうね。

 

彼は、ずっと非術師が嫌いだと自分に言い聞かせて生きてきた

とファンブックにも書かれています。

 

そう言い聞かせないと心が揺らいでしまう のでしょうね。

本当はとても相手思いの心優しい青年だった彼を

ここまで追い込んだ呪術世界の歪み、

人の持つ業なんかを

えがいている呪術廻戦、おすすめです。

 

見てくださった方ありがとうございます。

とても嬉しいです。

 

今回は役割というものについて書いていこうかなと思います。

人って、なんでか自分や他人を無意識に

何かの役割に押し込めようとしちゃうよねってことです。

 

この話をする前に、私の置かれている立場を説明します。

 

私には妹と弟がいます。

いわゆる第一子長女というやつです。

 

けれど、妹とは8歳、弟とは11歳離れているので、

一人っ子として育った環境が長く、

母も働いていて、3ヶ月から保育園に通っていたのも相まって

かなり放任で育てられてきました。

 

なので、性格的に、

生粋のお姉ちゃんかと言われれば違うかもなあ 

とは自分でも思います。

 

ただ、周囲からは姉であることを求められてきたので、

そういう振る舞いをしなければ

という思いがずっとあったのは事実です。

 

妹や弟の手本にならなければならない。

彼らが困ったことがあったら、

相談に乗らなければいけない。

家族内で問題が起きた時には、

問題解決に乗り出さなければならない 等々。

 

姉というものがどういったものであるのかわからないまま、

私の知っている姉というもののイメージで

自分の行動を決めてきました。

 

小さい頃から姉であったのなら

そうはならなかったのかもしれません。

けれど、8歳という物事の判断ができるようになってから姉になった私は、

本能的にというよりも、

知識として得た姉というものに自分を押し込めていました。

 

そういった行動は、

徐々に私の心を削っていったのかもしれません。

 

最近、妹が誕生日を迎えました。

私は、誕生日プレゼントは何がいいかと聞くと、

服が欲しい、一緒に選んで と言われました。

 

欲しいものをリクエストされてプレゼントすることや、

こちらで何かを見繕って送るのは、全然OKです。

そういうことはよくやっています。

 

けれど、「服を選んで買って欲しい」という言葉を聞いた時、

なぜか 嫌だな と思い、

最近とても忙しいことなんかを伝え、

時間があれば付き合うと返事をしました。

 

そこで、ふと思ったんです。

 

私は昔から結構いろんな人に

服選びに付き合わされてきたことを。

 

一番古い記憶だと、中学生くらいの頃から

母親の服選びに付き合った記憶があります。

当時は、頼られているのが嬉しくて

自分なりに一生懸命選んでいたように思います。

 

でもだんだん、考えるようになりました。

これっていいように使われているだけじゃ って。

 

服選びって、結構大変です。

本人がどういう服が欲しいと思っているかを考えながら、

その人のサイズにあった服を見繕うんです。

 

二人で買い物で、お互い欲しい服を購入する際に

相談したりとかは全然ありです。

友達同士だとそういう感じでした。

 

けれど、家族で私に服選びを頼んでくる人は、

ほぼノープランで来ます。

膨大な数があるアパレルショップで、どのお店がいいか 

とかそういうのまで丸投げで来ます。

 

何回か、人の服選びに付き合う際に、

ノープランでくる人の多くは

買う店を決めるのでさえ多大な時間を使うのだ という経験をした結果、

私は、ある行動に出るようになりました。

 

それは、

その人の欲しそうな服、

似合う服を扱っているショップを何軒かを

私が一人で前もって探し、

店員さんにどういう商品を取り扱いしていて、

サイズ展開はどのようなものか とかも聞き、

後日、相手を連れていく

という行動です。

 

これなら、当日に店選びに時間をかけずに済むと

私なりに判断したわけです。

 

で、当日、

事前に似合うであろう服と

取り扱い店舗を相手に伝え、

連れて行き、試着してもらいます。

 

その際も、似合う似合わないの判断を瞬時にし、

似合うであろう他の商品を見繕い、

試着室に持っていきます。

 

相手は試着した時に、私に感想を求めてきますので、

それに対しても誠実に、

かつ相手の気持ちを尊重した返事を伝えていきます。

 

そのようにして、ピックアップしておいた何軒かの店を回り、

服購入に至ります。

 

はっきり言って面倒臭いです。

けれど、自分で引き受けてしまった以上仕方ない。

と自分を納得させ、

時間があまりかからないように、事前準備に勤しむわけです。

 

それも無償で。

それ専門の仕事があるぐらい大変な作業にもかかわらず です。

 

今まで、相手から頼まれて服選びに付き合って、

(誕プレ選ぶとかそうイベント絡んで無い日の服選び)で、

何か報酬らしきものをもらったことはありませんでした

 

相手からもそういう提案はなかったです。

 

私に、そういう行為をすることによって、

褒められたい、

承認されたいという欲求がなかったとは言いません。

 

けれど、最近、そういう 無償の何か 

相手に求めてこようとする人の気持ち悪さに

拒否反応が出てくるようになりました。

 

時間って有限なんですよね。

 

その人の服選びのために、

私は一体何時間使わなければならないのだろう

と考えてしまうと、

もう 無理だ てなったんですよね。

 

私は、私が使いたいもののために時間を使いたい。

 

相手に無償で何かをしたとしても、

そのことが私の何かを成長させてくれるのであれば、

それはオッケーだと思います。

それって無償だけど、

何かを得ているという意味において対等だと思うから。

 

けれど、相手に服を選ぶという行為は、

私にとってはそうじゃない、

ただの搾取だ と感じるようになったから、

嫌な感じがするようになったのでしょう。

 

なぜ、こんな立場に私はいるのだろうと考えた時に、

一つの考えが思い浮かびました。

私が、姉という立場、役割にいるからじゃないか と。

 

お姉ちゃんだから。

家族だから。

無償で何かを奉仕するのが当然だと思われているんんじゃないかって。

 

姉という役割は、

そういう無償の何かを相手に与えられることを求められがちです。

兄というのは、地域によって求められることが違ったりしますが、

姉は、面倒をみるとかそういう無償の奉仕活動を求められがちです。

 

多分、姉という属性の中に

女性という要素が入っているからかなと思います。

 

最近は問題になってきましたが、

昔から女性というのは人へのケアをするということを

日常的に求められてきました。

 

男性へのケア、子どもへのケア、親へのケア。

社会は、そういった多くのケア労働というものを、

女性に押し付けてきました。

 

それも無償で。

 

女性の方が向いているとかなんとか口実をつけて。

 

そういった名残が、今でも日本社会の各所に見られます。

PTA役員の多くが女性であったり、

育休産休時短労働を取る多くの人が女性であったり、

親や義理の親への介護だったりといったものです。

 

家事なんかもそうですよね。

 

女性をそういった無料のケア労働に縛り付けるために、

男女間で賃金格差をつけて、

「給料が夫より安いから、そういうケア労働をやるのが当然」

という流れを作るという企みがあったんじゃないかと邪推するぐらいに。

 

働きながら、

そういった無償のケア労働を強制された女性たちの多くは

仕事を辞めていきました。

だって、どう考えても両立なんか無理だから。

 

最初から賃金格差があり、女性はお茶汲みしかさせてもらえず、

キャリア形成から外されている。

仕事にやりがいも見出せない。

どうせ結婚したりなんだで多くのケア労働を押し付けられるのなら、

辞めた方が効率的。

そう判断して仕事を辞めていった多くの女性たち。

 

そうして仕事を辞めていった女性が再度働きたいと思っても、

最低賃金のところからのスタートとなります。

 

どんなにいい学歴を持っていたとしても、

ブランクがあるという名目で、

以前努めていたのと同じような職や給料をもらうのは至難の技です。

 

そこから上がることの難しさはいうまでもなく、

働き始めてもなお、フルタイムであれパートタイムであれ、

ケア労働の負担は女性に押し付けられがちです。

 

キャリアを与えられない女性は、

経済的に自立しずらく、

パートナーからモラハラなんかを受けても

なかなか離婚に踏み切ることができず、

離婚できたとしても、

経済的に苦しい場合が多いという統計も出ています。

 

これは、日本だけの話ではありません。

 

そういったものを含んでいる女性という要素を内包し、

さらに一番上だからという理由で、

下の面倒を見ることを求められ、

そのことにやりがいを見出してしまう「姉」という存在

(やりがいを見つけなければ、続けられなかったからなのかもしれません)

 

そのように躾けられた姉(兄)によって

面倒を見てもらっており、それが当たり前すぎて、

幾つになっても、
無自覚に無償の奉仕というものを

押し付けてくる「妹」(弟)という存在。

 

共依存に近い関係性かもしれません。

妹(弟)だけが悪いわけでは無いです。

 

面倒を見ることにやりがいを見出してしまう姉(兄)にも問題はあります。

いわゆる余計なお節介ってやつをやりたがるというやつです。

 

そして、私と妹も、この状態になりやすい。

 

このことに気がつかなければ幸せだったのかもしれません。

 

けれど、私は人間関係って対等でありたいと思ってしまったんです。

これ以上無償で何かを与えるという行為が嫌になってしまったんです。

 

なぜなら、何かを与えるという行為は、

何かをしてあげた、とかそういう気持ちを、

自分に芽生えさせてしまいます。

 

私は、そこまで人間ができていないので、
どうしてもその気持ちが出てきてしまいます。

 

そしてそんな気持ちが芽生えてしまった自分に対して

罪悪感や嫌悪感が出てきてしまいます。

 

罪悪感や嫌悪感を抱いてしまった自分を

許しましょうという言葉が世間には溢れています。

人間なんだから、それは普通のことですよと。

それは素敵な言葉です。

 

けれど、

ある行動を行うことによって、

芽生える感情を予想できるのに、

それをあえてする

ということを許容できない自分がいます。

 

私は、自分を好きでいたいのに、

自分が罪悪感を感じてしまうであろう行為を、

自分が好きでなくなる行為をすることに意味を見出せないです。

 

たぶん、今の私の「人に何かをする」という行動はまだ、

ただの承認欲求からきているのかもしれません。

だから、褒めてもらえないと、

感謝されないと嫌な気持ちになるのでしょう。

 

なので、今後、そういう承認欲求が故の行動、

自分に対して嫌悪感が芽生えてしまうような行動は、

極力控えていこうかなと考えています。

 

役割というものに過剰適応した結果、

よくわからない承認欲求に囚われ、

それがよくない事だと自分に罪悪感や嫌悪感を抱いてしまう、

そんな自縄自縛の状態から少しずつ自分を解放していこうかなと。

 

もしかしたら、いつかは私も

「何かをしてあげた」という気持ちが

芽生えなくなるのかもしれません。

そうなった時に初めて承認欲求ではない

本当の無償の奉仕というのが

できるようになるのかなあと感じています。