生理が近づくたびに

「死」と向かい合う。


"生きるのに疲れた"そう呟いた次の日は
だいたい生理だ。


何回も繰り返しているから
それが、生理のせいだとわかっている。


けれども、
毎回本気で「死」を考える。


そしてそのたびに
「生きる」という“選択”をしてきた。


50歳まで続くとして
いま23歳だから
あと27年?
27×12カ月で324回。


あと324回、
私は「生きる」という選択をすることが出来るだろうか。


「生きる」という選択をすることは重要なことなのか。
「生きたい」から生きるのか
「生きなければならない」から生きるのか。

生きることの意味とは。
なぜ生きるのか。
なぜ生きるという選択をするのか。
なぜ死なないのか。
なぜ死にたいのか。

11年×12カ月で132回。
132回その問いと戦いながら
まだ、生きている。
もちろん積極的な選択ばかりではなかったけれども、
とにかくまだここに私の存在はあるらしい。



ひとが怖い。
ことばが怖い。
涙が止まらない。
生きるのが辛い。
何もかもが絶望的。
明るい未来なんて考えられない。
つらいつらいつらい。



それでもまた
ひとつ「生きる」ことを選べるだろうか。

その選択をすることによって
得られる小さな幸せは
あるのだろうか。



未来の自分に会いたい。
未来の自分につよく抱きしめてほしい。



過去の自分を抱きしめたい。
生きることを選択してくれた小さな自分を抱きしめながら
心行くまで泣き果てたい。



はじめて「生きることの意味とは」という疑問を抱いたのは小学校6年生の時。


もし私が少なくとも50歳まで生きのびたら
それは約455回の「生きる」という“選択”の結果。
それはそんなに生易しいことではない。
ひとりきりで耐えがたい夜もある。苦しくて苦しくてどうしようもない夜もある。誰にも何も伝えられない夜もある。悪いことがたまたま重なってしまう夜もある。



それでも「生きる」という選択をし続けることができたら、

その時は、答えられるかもしれない。幼い少女の疑問。






「死んじゃおっか。」



―幼い少女が静かに、しかし力強い瞳で
じっとみつめてくる。


ぽたぽたとこぼれる涙をぬぐうこともせず
「こんなこと続けても何にも変わらないよ。変わらなかったよ」
大きな私が懇願する。


―少女はただ見つめてくるだけだ。その無垢な瞳で。
感情をことばにする術をまだしらないから。


わたしが生きていることに意味はあるの。
もう十分じゃないかしら?


―小さな少女はただ首をふる。
否定ではなく、ただわからないために。



まだ生きていたい?



―少女とふたり見つめ合いながら
ぐるぐると
ぐるぐると
ぐるぐるぐるぐる