庭が自分の一部となり、心のふるさとと呼べるようになるには、さまざまな記憶や時を経験し、長年そこに住み続けないとだめだろう。私は小さな頃から父の転勤で、何度も引っ越しを繰り返した。だが、環境が変わっても、それに違和感なく何気なくスムーズに溶け込める性格で、世間への適応力があった。違うところがあっても、自分をそこに合わせていけるだけの柔軟性もあった。誰とでも仲良くなれた。自分の信念のようなものがあり、そこに合わないものは従わないような頑固さはあったが、それで衝突するようなこともなく、不幸と感じることもなく、学生時代を平和に、いや平和以上にほんとうに幸せに楽しく過ごした。



だが引っ越しが多かったせいで、自分の幼少の頃をたぐりよせる庭がない。もっとも近いのは、やはり14歳から住んでいる現在の実家の庭で、ここは、私が園芸を始めて夢中になった経験のある場所。そういう意味では懐かしい。



 私が子供時代5年間暮らした滋賀県の栗東という街は、自然があちこちにあって、そのときは美しいとは感じなかったが、草や土のにおいが私を育んでくれていたのだと思う。あのとき自然にたわむれていた感覚が、あとになって私のなかでむくむくと増殖していったことは間違いない。



スコップを持って土を掘ったり、支柱を立てたり、そういう身体を使ってすることも、たぶん親がしているのを見ていて、自然に覚えたのだと思う。いざ道具を持ったときに、これはどう扱ったらいいのか、わかないと言う経験はしなかった。園芸をするときの身体の使い方というのは、独特のものがあるが、これも見て真似て覚えたものだろう。そうでなければ、最初からそんなに器用に園芸道具を操れなかったろうと思う。



 人の興味に火をつけるもののひとつに、「新鮮な驚き」というものがある。私も初めて植物に興味を持って、園芸店に立ちつくした日のことを思い出す。当時は観葉植物のブームで、園芸店には大小たくさんの観葉植物の鉢植えが置かれていた。



そのとき軒先の片隅に何気なく置かれていた、ポット苗の何気ない草たち。そのラベルはミントとか、ローズマリーとか、タイムとか、サイモンとガーファンクルの歌に出てくるような聞いたことのある文字が並んでいた。不意にその葉に触ったとき、葉から香りのカプセルが飛び出し、私の掌のまわりに広がった。葉を触った手で、手を鼻に近づけると、スパイシーで強烈な香りがする。ただのふつうの草に見えるものが、こんなに刺激的で素敵な香りを持っていることが、ほんとうに驚きだった。



しかも種類によって、その香りは全然違う。私はその一瞬で、ハーブの虜になってしまった。ハーブの本のページを繰れば、ハーブにはさまざまな種類があることも知った。私は新しい香りを求めて、ハーブを扱っている園芸店ならどこにでも出かけて行った。その途中で出会ったのが、ハーブの種子を扱うお店だ。種子の種類は膨大で、それからは、ほかの場所に出かけて行かなくても、種子を買い求めて、新しい香りと出会うことができた。これが私のたねまきとの出会いだ。



 私はこのときの驚きを、今起きたことのように鮮明に覚えている。それは、ビジュアルの記憶もさることながら、あの強烈なハーブたちの香りのせいだ。香りが私の記憶を瞬時に手繰り寄せ、あの頃の私へといざなってくれる。



 いったん私の心に植物という火が点火したら、そのあとは、もう止められなかった。今もその長い旅の途中にある。もちろんそんな驚きも、いったん経験してしまえば、さほど驚くに値しなくなると思われるかもしれない。だが、香りの場合は特別だ。香りの記憶が、昔のあの新鮮などきどきした気持ちを、今も思い起こさせてくれる。



 よい香りのするハーブたちのふるさとは、地中海沿岸地方が多い。当地を題材にした小説や伝記などには、イブキジャコウソウやローズマリーといったハーブがよく登場する。私がもし地中海の沿岸に生まれていたら、もっと小さな頃からこの香りに触れ、植物好きになっていたかもしれない。



私が草花育てを始めた頃、春にスイトピーやらいろんな草花が咲くので、当時通っていたスポーツクラブの人たちに花束を日々持って行っていた。だが、暇な人のやることだと言われたり、とくに女性に差し上げてもあまり喜ばれなかった。かえって男性のほうが喜んでくれたのを覚えている。庭づくりをしている人のことを、周囲の人が必ずしも好意的に見てくれるわけではない。そのことは経験からよく知っている。幸い私が実家にいた頃は周囲に花育てや野菜作りの好きな人がたくさんいたので、私は比較的よいスタートが切れたと思う。



その後私は園芸研究家になってから、45歳のときに造園の勉強をしようと思い、大学院に入学した。ちょっとした思いつきだったが、やってみたら、大変なことになったなと感じた。だが、園芸の仕事をしながら、家事も、庭づくりもしながら、しかも入学してまもなく母が癌になったことがわかり、入院中は日々病院通いしながら勉強した。実家でひとりになった猫の世話もあった。



ただ、私が通った大学は校舎も室内もほんとうに汚れていて、私が生き生きと過ごし、勉強できるような場所ではなかった。大学にいると生理的になんとなく嫌な感じがした。ここでそういうことを感じずに、造園という美や芸術の世界に入っていくものがいるということが、どうしても私には結びつかなかった。



数年造園関係の仕事もしたが、いろんなことをやりすぎると、集中力が欠けるし、頭のなかが雑になるのは確かだ。やっぱり私の住む場所は、たねまきと、花の庭づくりだと思い直し、また元の自分に戻った。造園を学んだことは決して無駄ではなかったと思うが、やはり、あまり手を広げすぎてはいけない。仕事を変えるつもりもなかった。自分のテリトリーのなかで、生き生きと生きる。そのほうが自分を見失わずにすむ。