なので、私の父の事を
書こうと思います。
私の父は10人兄弟の3番目で次男。
父の事を知る人は一様に
「ほんとに頭のいい人。」
と言う。
私が憶えてる父は
お酒ばかり呑んでる人。
そんな父が、酔った時の口癖
「俺は昔、海軍兵学校で
級長をやってた。」
そんな事言われても、それがどのくらい
すごい事かなんて分かりっこない。
私だって小2の時、学級委員長
やってたよ。
何故私?
いまだに謎…
父が中学校を卒業する際、
先生に農業高校を薦められたらしい。
当時は農業高校がレベル的に
1番だったんだって。
けど、父は百姓なんかやってられねぇ
って、自ら海軍を志願して海軍兵学校に。
父は私が物心つく前から関東方面に
出稼ぎに出てて、年中家にいなかった。
帰って来るのは
田植えと稲刈りの時期だけ。
ちょっと変な話だけど
だから、私達4人兄弟の誕生日が
近いんだ。って姉と話してた(〃艸〃)
私が4歳の時に母が亡くなったんだけど
その時祖母が
「4人のうち誰か一人でも
養子に出さないか?」
と、言ったら
父が4本の指を出して
「この指、どれを切っても痛みは同じ。
だから誰も手放せない。」
と。
この話、祖母から何回も聞かされた。
私、思うんだけど
確かに感動的な言葉だよ。
でも、大変なのは祖母。
年寄りが8歳をカシラに
4人の孫を育てるって容易な事じゃない。
それでも頑張って育ててくれた祖母。。
ゴッドグランドマザー!
私、父が出稼ぎに出るようになったのは
母が亡くなってからだと思ってたけど
もっとずっと前からだった。と、
兄が言ってた。
えー!
そしたら母、大変だったろうな。
祖母って、男勝りで恐い人だったから。
弟と、祖母が女か男かで
ガチで言い争った事もあった。
あんまり恐くて、消しゴム1つ
買うお金貰うのにも勇気を
振り絞ったもの。
友達ん家に行って羨ましく思うのは
お母さんがいていいなぁ。
ではなく
優しいお婆ちゃんでいいなぁ。だった。
父が出稼ぎから帰って来ても
自分の父と言う意識は全くなく
特に甘えた記憶もない。
それよりもドンクサイ私ばっかり
怒られてたなぁ。
でもね、私が小五の時
父の事を書いた作文が
市の広報に掲載されて
それを読んだ父の嬉しそうな顔。。
今でも思い出せる。
その作文のタイトル
『父は私の宝』
綺麗事を織り交ぜながら書いたっけ。笑
それと、その頃の父の事で
思い出すのが
学校から渡されるプリントの中には
『保護者から』って欄があると
普段、家に父が居ないものだから
私の性格上、白紙で提出なんて出来ない。
自分が保護者の気持ちになって
記入し提出してたんだけど
いつだったか、父にその『保護者から』を
書いてもらった記憶が1回だけある。
その時は嬉しくて何度も読み返したっけ。
『猫の手も借りたいほど忙しい・・・』
のとこだけ憶えてる。笑
時は流れ・・・
父が危篤との知らせがあり
皆んなで東京の病院へ。
危機を脱出したものの、その後は
出稼ぎ労働者を引退し、隠居生活。
兄と姉は結婚して家を出てたから
私と弟と父の3人での生活。
すっかりやる気を無くした父は
朝から酒を呑む毎日。
「また朝から酒呑んでんの?」
と、言うと
「酒なんか呑んでねぇよ。焼酎だ。」
と、屁理屈。
どちらかと言うと陽気な酒呑みだった。
その頃の父の思い出。。
ある日、父から電話。
秋田の旧友の家で呑んでるから
迎えに来い。と…
秋田?!
行った事ないし、家知らないし…
ただ一つの手がかりは
その辺に一つしかない苗字。
取り敢えず、車で横手駅に向かった。
電話ボックスに入り電話帳で
その苗字を探して電話した。
電話に出た父の友人の指示に従って
走ること数10分。
やっと辿り着いた。という思い出。
私、なかなかやるな
と
自分で自分を褒めたたえた。
それから数年後
私の苗字が代わり、父の事は弟に託す。
心配で、時々帰ってはいたけどね。
長女が生まれ
こんなに可愛い孫
父さん、喜ぶだろうな。。
退院して数日後
父の夢を見た。
青白い顔で寂しそうだった。
夢の事を旦那に話して
「お酒呑みすぎて、体調崩してるんじゃないかな。」
と、言った時
旦那はドキッとしたらしい。
だって、この時には父
もうこの世には居なかったから…
近所の家でお酒を呑んで
帰る途中、あやまって用水路に…
草刈り作業をしてる人に発見された。
うつ伏せの状態で、推定10日くらい
流水に浸かってたらしい。
旦那は私に気付かれないよう
会社に行くふりして私の実家に行って
婿として務めてた。
線香の匂いを消すのに
苦労してたって。
産後の肥立ちが悪くなる。との事で
私に父の死は知らされなかった…
産後3週間経ってから聞かされた時
それってどうなんだろう…
って思ったけど
別に死に目に会えるわけじゃなし、
もう既にこの世には居ないんだもんね。
それに私以外の兄弟と旦那が
霊安室の父の所に行ったんだけど
旦那は父の顔を見た後
姉に
「見ない方がいい…」
と、制したって。
まぁね、それこそ変わり果てた姿って事…
私、霊感なんて全然ない。
あの夢は父が私のところに
最後のお別れを言いに来たんだね。。
去年、千葉の叔母の所に行った時
叔母が言った
「兄さん(私の父)、あのまま海軍にいれば
今頃、左うちわで生活してたのに…」
どういう事?
で、海軍兵学校について
初めて調べてみたら
『エリート将校の本道』
現在の基準にすると、その地方の最難関高校の成績がトップクラスで、運動部のキャプテンを努め、なおかつクラス委員長を務めた人物。
東大より難易度が高い上、体力も要する。
そのクラスで文武共に
成績トップが級長となる。
マジか…
私の父って東大生より
優秀な人だったんだ…
しかも頭がいいだけじゃなくて
運動神経も抜群だったんだ…
すごい事を知ってしまった!
まさにゴッドファーザー!
そんな偉大な父の娘でありながら
残念な事に
私が父から譲り受けたDNAと言えば
酒呑みって事だけ…
父が言ってた。
「出稼ぎなんてな、呑まなきゃ
やってらんねぇ。」って。
何故、父が私達と暮らさず
出稼ぎ労働者の道を選んだのか・・・
多分、プライド?!かなって思う。
長男が戦死したため、次男である
父が必然的に家を継ぐ事になった。
きっと苦渋の決断だったろうな。
田舎で百姓なんか
やりたくなかったんだもんね。
妻・子供を家に置いて
独り、都会で働いてる時や
身体壊して家でお酒呑みながら
『こんなはずじゃなかった…』
って、何度も思ったでしょうね。。
そう思うと哀れでいたたまれない。
戦争さえ無かったらね…
だけど…
父が出世街道まっしぐらで
今頃、左うちわで暮らしてたら
私の存在は・・・
複雑…
父の日に
亡き父を偲んで。。。
