教える側がゼロであれば、生徒が動き始めます。
教える側がゼロ以外であれば、生徒が勝手に迷います。
先生と生徒で登山するとします。先生が山の麓にいれば、生徒は勝手に登り始める。先生が頂上にいれば生徒は下山する。
先生が山の中腹にいると、生徒は登山するのか下山するのか迷う。

動かない我々がレールを敷くのではない。物理的に動ける人間が敷くのである。
我々は、レールの存在を記述・伝えるのみであり、レールを敷くのは物理的に動ける人間である。そして、レールに乗るのも物理的に動ける人間である。
物理的に動けない人間はレールや地面を寝そべるだけである。寝そべる我々を運べるのも物理的に動ける人間である。

寝そべっていればゼロである。たまに標識を立てて、たまそこに寝そべる。
それでは、ゼロに向かうスピードを少し遅くします。
では、「うるさい」と感じるのは誰でしょうか?
それは「聞きたい」と思っている人です。そして、「聞きたくない」と思っている人です。
「先生の話を聞きたい」と思っている人です。人には周りの生徒の声がうるさくて「先生の話を聞きたくない」と思っている人には先生の声がうるさいのです。

「先生の話を聞きたくないのなら教室から出ていけ」と言うのは先生の逃避になります。
なぜなら「嫌な存在を排除する」だけなので、その人が共存共栄や絆や愛を語れますか?教室を出ていった生徒に他人を思いやる気持ちが芽生えますか?
うるさい生徒が、その先生が教える時間のみ教室からいなければ良いだけで、「一時しのぎ」なのが明らかです。

ゼロと言うのは「何もない」のではなく、どちらでもありどちらでもないのです。
そのように言うと不安定な状態に聞こえますが、圧倒的な安定と不安定を持ち合わせています。
わたしは圧倒的な安定を掲示選択しているだけです。

少しでもほんのわずかにどこかの方向に動けばゼロは崩壊します。圧倒的な不安定ですが、基準は常にゼロからです。圧倒的な安定です。
先生が生徒に「授業中は静かにしろ」と言うのは何故でしょう?
この先生は真面目に勉強しようとする生徒だけに教えたいのでしょうか?
「真面目に勉強しようとする生徒に迷惑をかける」との理由で静寂を求めると、さらにその傾向は強まります。

「生徒がうるさいと先生の声が伝わりにくい」の理由であれば合理的に見えますが、今度は先生をアピールするだけの理由になります。
「先生の声だけが伝われば良い」と。
生徒の声が周りに伝わってはいけないとすると、生徒が発言する全ての機会が失われます。
であるならば、うるさいのは必然になります。

どうすればよいのでしょうか?
ちなみに、わたしは今、ゼロに近いです。厳密に言うとゼロではありませんが少なくともゼロに向かっています。

「機会を与える」
この言葉のみでわかってもらえるとわたしの教え方は効率がよくなります。
なぜなら、それ以上伝える必要性が無くなるからです。