運がいい人って、自分のよさがわかる人なんです。    

たとえば私の知り合いで介護の仕事をしてる人がいるんだけど、その人はまわりから見て、お世辞にも「いいスタイルしてるね」とは言えない体型をしてるんです。    

でも本人は、「私はがっちりした体型をしてるから、介護の仕事に向いてるんです」と笑顔でまわりに話してるんです。    

百合の花はダリアに憧れたりしないの。    

桜の花は桜の花で、梅の花に憧れたりしないんです。    

自分の欠点を探しているより、神様が与えてくれたかけがえのない自分という個性を大切にするの。    

それで、自分のいいところを探せる人は、他人のいいところも探せるんです。    

自分の失敗にこだわってる人は、必ず他人の失敗にもこだわるの。    

それをオセロゲームのようにひっくり返していくと、他人のもひっくり返すことができるんです。    

そういう人が新小岩に住んでるとすると、「新小岩っていいよね」って言うんです。    

それを未熟な人は、「東京は人が多くてダメです」とかって言うの。

それでそういう人が自分の故郷をほめるかって言うと、「この辺はなんにもないんです」とかって言うんです。    

そういう人って、どこにいても欠点を探すんです。    

だからうまくいかないんだよ。    

新小岩のよさを探せる人は、「東京はいいですよ。タクシーは拾えるし、夜遅くでもフランス料理を食べさせてくれるところとかあるんです」って、いいところをいろいろ発見することができるの。    

そういう人が商売をすると、たとえば立地が悪くても、そこのいいところを探して商売に活かそうとするんだよね。    

たとえ不況でも、できることを考えて行動することができるんです。 

結局、運がいい人ってそういう人なの。    

欠点を探し、イヤなことを探しながら運がよくなることってないんです。    

なぜかって言うと、それって神様に文句をつけてるのと同じなの。    

マージャンでもポーカーでも、配られた手に文句を言って勝てる人はいないんです。    

配られた手で勝つことを考えるの。    

それで、神様もそれを望んでいるんです。    

運がいい人って、与えられたことに全力を尽くせる人なんだよね。    

そして、それを苦とも思わないの。    

運がいい人というのは、運がいいから苦を避けられているわけじゃないんです。    

この世の中は、問題の連続なの。    

運がいい人は問題がない人ではないんです。    

運がいい人は、問題を恐れないんです。    

それで、その問題とは階段なんです。    

問題を解決していくと、一段、また一段と上がっていくんだよ。    

それで、運の悪い人はその問題を避けようとするんです。    

でも、問題は避けられないの。    

なぜかと言うと、私たちは問題を通して魂を成長させてるんです。    

だから、問題は永久にあるんです。    

問題を避けるために運がよくなりたいっていうのは無理なんです。    


斎藤一人 柴村恵美子 著    

『運』より