上野先生、フェミニズムについてゼロから教えてください!感想文
この二日、上野さんと田房さんがフェミニズムについての対談を読みました。本は五つのパーツがありました、女性の難しいところ、女性はどう社会と家庭という戦場で戦える、婚姻、恋愛と育児をじっくり考えること、フェミニズムと性の話題、あとはどんな人はフェミニズムを自称できること。読んでる最中にものすごく共感しつつ、東アジア、もしくは全世界の女性とも似たような悩みや苦しみを抱えてるという事実に凹んでしまい一方で、こういう状況を変えようとする人々たちを見て、改めて社会全体もどんどんこういう大きくなる力を無視できなくなるでしょうかと期待しています。
第一章では、主に母親と娘の間に微妙な関係性について語っていました。なぜ母親は毒な親になるのかという話題に興味を湧いてきた。これは中国でも結構似たような状況で、上野さんからよると、やはり母親は少女時代の時長子として扱われず自分の母親に無視され、自分の価値と存在を証明するために反抗しながら、自ら母親になる途端娘に自分の意志を押し込むようになります。娘を支配することで、母親は自分の価値を示すことができる。だから母親は圧迫者であり、犠牲者でもあります。母親は娘に自分の思うように生きてほしいということは非常にわかります。しかし興味深いのは母親と息子の間にこういうパータンがありません。それは異性だからなのか、息子を社会に期待してる男性像として育つためにこういう対抗関係がないのでは未だにわかりません。
そして上野さんから描かれた日本のベビーブームの頃の父親像は、家庭中に見えないキャラだと認識されているようです。伝統的な家庭では母親と娘が喧嘩してる時に、父親は中立になって、調和の責任から逃したいというのはなんとなく分かります。私もたまに母親と意見がズレてる時、父親からのサポートを得ず、常に自分で飲み込んで、あるいは母親の味方になり、私を一人の境地に追い詰めたということになる。田房さんと私は似たようなことを経験してきましたし、同じような疑問を抱いていました。なぜこの時点で、父親は母親の陣営を選んだのでしょうか。 しかし、上野先生は、母親を選ぶのに適切な決定であると説明しました。これがなければ、娘は心理的に母親から離れるという任務を達成することができなかったからです。これまで読んでふと気がついたのですが、もし父親が私を支えてくれるとしたら、家族から離れて自立した個人になることは難しいのではないでしょうか。今思い返せば、当時の父親の選択は明らかに正解だと思いました。それでも、当時の私は父がもっと和解の役割を果たしてくれれば良いのではないかと望んでいました。
第二章で一番印象に残ったのは三つのポイント。第一に、妻や母といったレッテルに縛られるのではなく、女性が勇敢に個人的な視点を表現すべきだというということです。個人な意見は政治化な意見。第二に、女性の解放は最初的に性的解放の実現すること、つまりより体系的で包括的な性教育を必要としており、社会は女性が健康で安全な避妊手段を提供し、女性がより良い性生活を享受できるようにする一方、痴女と呼ばれることなく、女性として性な快楽を楽しめること。第三に、田房さんは、社会はA面とB面に分かれており、A面は経済や仕事などの社会生活を表し、B面は家族、病気、育児などの背後にある生活を表していると述べました。男性は基本的にA面で戦えるが、女性はほとんどの場合、AとB面の間を行き来する必要があり、そのプレッシャーは想像に及ばず。この三点には深く同意します。中国の女性も同様の課題に直面しています。まず、幼い頃からの家庭教育で、女性は安全ズボンを着用し、短いスカートは履かないように規制されます、さもないと女性は犯されやすくなります。それは本当に女性が犯されやすいなのか、あるいは男性は女性が自分の付属品であることを当然のことと思っており、自由に女性に遊べることができると思うでしょうか。第二に、社会が女性に特別な避妊手段を提供できない場合、女性の体と心に大きな害を及ぼし、人間性を抑圧し、寛容な生活を送ることを余儀なくされる可能性があります。これは明らかに女性を解放する際に最優先に考えるものの一つです。第三に、社会が男性と女性に異なる期待を与えるということは、女性が社会生活の中で脆弱な立場を変えることを困難にしています。男性は、これが社会的意識によって引き起こされていることに気付かなければ、パートナーがなぜそんなにストレスに溜まりやすいなのか、なぜ喧嘩しやすいなのかのが理解できるのでしょう。したがって、フェミニズムは男性がB面の生活にもっと参加するよう促進する必要があると私は信じています。そうすれば、女性の負担を軽減することができ、男性も人生の両面のバランスを取ることの難しさをよりよく理解し、女性の気持ちを理解することができます。しかし、既得権を持つ側として、現在のA面生活を譲れる男性陣がどれだけいるでしょうか、それはまた、社会全体として思考すべきものだと思います。
第三章では主に、長い社会的発展の後、さまざまな世代の女性の結婚と子育てに対する見方も大きく変化したことについて説明します。かつて、日本の女性は家庭に溶け込むために企業に就職し、選ばれたサークルでパートナーを選ぶことさえありました。このようなマッチングの結婚観は、人々が配偶者を選ぶときに今でも最も重要である標準のようです。そしてかつてベビーブーム世代の女性たちは家庭生活で火薬に満ちていまして女性たちは男性が助けてくれない理由について直接不平を言っていました。この口論では、男性はいわゆる家族の責任を逃げていると承認されることができます。しかし現在、カップルは口論を避ける傾向があり、妻は夫と直接口論するのではなく、逆にソーシャルメディアに痛みをぶつけます。上野先生は、一人が一人を殺すという古い見方を結婚と家族関係に戻す必要があるかもしれないと述べました。苦痛の日々の積み重ねは、自分のためにも家族のためにも決して良くありません。私はこれに同意します。結婚は決して容易ではなく、結婚と子育てを過小評価することは苦しむことになるでしょう。女性は夫との交流にエネルギーを使う必要があり、夫の背後にある社会の利益を非難し、戦い、A面とB面の境界を破り、夫を引っ張る必要さえあります。第二章で述べたように、夫をB面の生活に引き込ませることが必要です。フェミニズムはまた、女性を鼓舞し、男性が家庭生活により深く関与することを奨励するべきです。なぜなら、慎重な交渉が維持されなければ、夫と妻の関係は変わらないし、離れてしまうことさえあるからです。
第四章では主に、おじいさん的な思考を社会的レベルから排除する方法について議論します。人々が子供の頃から受けた教育やメディアの報道で接触した情報の中で女性について話すとき、女性に弱い、保護されている、恋に憧れというラベルを付けることがよくあります。よく男性の付属品として認識されています。日本であろうと中国であろうと、女性が不正に苦しむのを見たとき、普段の反応は、それが自分の娘や妻に起こったら許されないというものです。この論理に問題はないように思えますが、上野先生によると、女性は男性に従属し、女性は独立した個人として扱われないという考え方が反映されているとのことです。確かにそうです。私の周りの人々があらゆる種類の性暴力事件を聞くと、特に伝統的な教育を受けた女性は、この女性は他人を誘惑することに問題があるに違いない、またはなぜこの男性は良いガールフレンドを見つけられないのかとよく言います。この背後にある論理は、女性は自分自身の問題があるのに侵害されたと考えて、女性を男性より低いレベルで扱うことでもあります。非常に悲しい考え方であり、現時点で変えるのは難しいと考えです。それでも、女性に与えられたラベルを放棄する必要があることを社会に伝える声が依然として必要であり、さまざまな性的暴力事件の背後にある本当の理由をより客観的に見るために、思考の固有の枠組みを打ち破る必要があります。単に性別や特定の行動に起因するのではなく、裏には思考または心理的な理由である可能性を考えなければならないと思う。そして、こういう思考を普及するため、特定の教育基盤も必要です。上野と田房さんが言ったように、それは、男性が幼い頃から少女漫画を読み、女性が少年漫画を読むことです。ジェンダーの固定観念に拘れではなく、人間であることの多面的な個性という考え方が、根源にあるこの深く根付いた思考を緩和するかもしれません。これはまだ考えなければならないことです。
第五章では、フェミニストのアイデンティティと特徴について議論します。内容については、前回の議論でも少し触れましたが、現在の東アジア社会では、フェミニズムについて言及する際に、過激で不人気で迷惑でいじめられるような見方を考えることが多く、フェミニズムがテレビで宣伝されている場合は抵抗されることが多いことです。現在、世界で起きている Metoo 運動、各国のトークショーでの性別の固定観念についての議論、東京大学での上野先生のスピーチなど、いずれも社会で激しい議論を行われていいます。一体フェミニストとは何か、上野先生も独自の視点を語りました。上野先生からよると、フェミニズムの本質は自己和解の戦い、いわゆる女性が自己嫌悪の目覚めの表れ、女性に自分自身を受け入れて愛するようにするために社会的不正と戦うという考えであると信じています。そして、この考え方は、異なる社会では異なる方法で表現される可能性があり、同じ社会でも非常に異なる視点が存在する可能性があると思います。フェミニズムとは主張することを恐れないという考え方であり、自己申告の概念であり、多様であり、ひとりが一つの派閥またはそれ以上の派閥であると言えることです。急進的な人や穏健な人ともいますが、誰もが自由に話すことができます。だから、例えば伝統社会の男女はどうしても自分の考え方でフェミズムを解釈してしまいますし、女性内部でもフェミニストとは縁を切ろうという考えを持つ人はあります。しかし、それが認められないかどうかにかかわらず、すべての論争は良いことだと思います。人々がこの問題を真剣に受け止め、表で議論していることを示しています。社会レベルで広範な議論が行われている限り、人々はフェミニズムについて昔と違う考えを持っている可能性があり、これまで性別に関する公共の行動や思考パターンは徐々に変えるかもしれません。したがって、私は個人的に、こういう議論と対立は、何世代にもわたるフェミニストが望んでいる状況かもしれないと考えています。この人たちの力が集まれば、新たな状況を打破できるのではないでしょうか。
本書は主に日本におけるフェミニズムの起源と経験したさまざまな困難や問題について論じている。日本のみならず中国や世界の国々でフェミニズム運動してる人たち、フェミニズムのアイデンティティに混乱し、フェミニズムの本質について興味ある人にとって良い本だと思います。ここで言及されている議論は、さらなる詳しく議論することができると信じます。