今から40年前の1977(昭和52)年9月27日、厚木基地を飛び立った米軍機が、緑区に墜落し、母親と二人の幼い子供が亡くなった「横浜米軍機墜落事件」について書きたいと思います。

 

事故から8年目に遺族から寄贈され、20年間は何の像かわからない状態だった。

 

私は35年前に日本テレビで横浜米軍機墜落事件をドラマ化した「あふれる愛」(丘みつこさん主演)を観て、かなり衝撃を受けました。ご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんね。

米軍機事故の多発、沖縄の基地やオスプレイの問題などが

取り沙汰されている今だからこそ、この事件について書きたい!

風化させてはならないという気持ちで、若い方々にも知ってほしい。そのような願いも込めて書かせて頂きます。

              現場は閑静な住宅街。

  まだ土だったここに墜落の衝撃で4mの穴が開いたという

             青葉区大場町の鉄塔。

厚木を離陸した機体はこれを目印に海に旋回していたという。

 

1977年(昭和52年)9月27日。その日、戦術偵察機RFー4Bファントム機は、厚木から千葉県館山の東南沖に待機する空母ミッドウェーを目指し離陸。

ファントムといえば一時代を築いた超音速戦闘機。

 

事故を起こしたのはその偵察機型で長さは約19m、

重さ26tの機体。

離陸後すぐエンジンから出火し、2名の乗員はパラシュートで即時脱出

ジェット燃料を満載した無人の機体は緑区の上空に取り残され、日を吹き轟音を立てて墜落しました。

 

離陸からわずか3分後のことだった。

墜落現場は一瞬で6軒の家を焼き尽くし、9名が負傷。

 

中でも、墜落の衝撃で分解したエンジンが直撃した和枝さん(当時27歳)とご主人の妹(26歳)は、衣服が焼け落ちた姿で2人の子供を抱え、黒煙の中から飛び出して来たそうです。

 

4人のやけどは最もひどい"全身熱傷3度"の状態。

和枝さんの長男・裕一郎くん(3歳)、次男・康弘くん(1歳)の

やけどは体表面積の100%に達していた。

 

墜落時の熱風は30m離れた地点でも肩にやけどを負ったほど

だそうです。

晴れた夏の昼下がり、アイスクリームを食べて団らんは一転。

のどの渇きに苦しみながら、長男は深夜に、一歳の次男は

鳩ポッポを歌いながら。。亡くなったのです。。

 

母親とは別の病院でした。

 

パイロットのパラシュートは墜落地点から約3km離れた緑区鴨志田に着地した。連絡を受けた海上自衛隊の救難ヘリは、無傷に近い二人のパイロットだけを助け、墜落現場に向かうことはついになかったのです。

 

まだできたばかりの公園が最も激しく延焼した。今は事故の面影もなく静か。

 

子どもたちの死を知らされなかった母・和枝さんの壮絶な4年と

4ケ月はここから始まります・・。

       右は和枝さん自身の日記をまとめた本。

       左はお父さん・勇さんの著書

 

一か月もの危篤状態を抜けると、敗血症などの感染症を防ぐために、硝酸銀の薬浴に漬かるという厳しい治療が始まった。壊死した

皮膚をはがすにも衰弱のあまり麻酔を使えない。

この薬浴に漬かるシーンは、ドラマでも主演の丘みつこさんが非常に嫌がり、抵抗し、泣き叫ぶところを数人に押さえつけられるようにされていた姿が強烈に印象に残っています。本当に痛がっていました。しかしドラマですから・・実際はドラマよりも壮絶であったとおもいます。。

想像を絶する苦痛に耐えたのは、子供たちに会うためになんとしても生きようとがしていたからだったそうです。。

 

皮膚移植が始まると今度は、繰り返される麻酔がのどを傷つけ

呼吸困難におちいった。以降、のどを切開しカニューレという管が

呼吸を助けることになる。移植で皮膚は伸縮性を失い、歩行も

できなくなった。

 

       東京新聞が呼びかけた皮膚提供の募集には

   1500人もの申し出があった。(『パパママバイバイ』より)

 

42名からの皮膚提供を受け、車椅子で一時帰宅もできるほどに

回復した和枝さんは、事故から1年3か月後に、家族から知らされたのです。お子さん2人共の死を・・。

書籍には、窓口となった防衛庁施設局への恨みが増し、職員を

大声で責め立てた事実も赤裸々につづられている。

 

子どもの死を知ってからの心理的リハビリは、和枝さんの精神を

ますます混乱させ、ご主人とも離婚。

 

仮退院時もカニューレのあるなしにかかわらず、深夜になると

呼吸に苦しみ、幾度となく救急車を呼ぶか、しまいには心因性の

ものとされ救急車の対応もなくなっていったそうです。

 

病院の勧めでなかば強制的に精神病院へ転院。和枝さんの

ショックは相当だったそうだが、退院してからの夢も語るようになった矢先、心因性呼吸困難で31歳の生涯を閉じた。。

 

和枝さんの一家は告訴等せず示談を選んだ。

「和枝の命をどう助けるかが家族の方向性であり、亡くなってからはただ心安らかに眠れと願った」と、政治には利用されない道を

選んできたことを語る。

 

 

国から支払われた賠償金で、父・勇さんは「和枝福祉会」を立ち上げた。

和枝さんが子供たちの死を知ったその日の日記を、「和枝福祉会」

にある喫茶室「ぽっぽ」で拝見できるようです。

 

店名は、次男が"鳩ポッポ"を歌いながら亡くなったことにちなむ。

 

和枝さんは「元気になったら福祉の仕事で恩返しがしたい」と

願っていた。

その遺志を父・勇さんが継いで設立した施設が和枝福祉会。。

 

               和枝さんの手記

折り続けた千羽鶴も手紙もプレゼントもむなしかったことを知る

 

     初夏にはブラックベリー摘みもできる「和枝園」は、

     知的障害施設の分場でもある

 

        和枝福祉会は知的障害者の授産所など、

市内に4つの施設を持つ

 

 

●安保条約とパパママバイバイ。広がる政治・司法への波紋

墜落当日に行われた機体の残骸回収と翌日の日米合同検証は、

アメリカ主導で行われた。公務執行中の罪に対して、アメリカは

第一次裁判権を行使できるといる”地位協定”のもと、これまで

墜落事故では、日本の警察が原因と責任を捜査・追究することは

なかった。

 

実はこの事件には、もう一人重いやけどを負った椎葉さんという

女性がいた。日本にも裁判権があることを掲げ、米軍パイロットを

業務上過失致死罪で告訴している。

結果は、日本政府がアメリカの特権を放棄させることはなく、

不起訴。

しかし、民事訴訟で7年後、横浜地裁は「米国人にも民事裁判権

が及ぶ」という画期的な判決を下した。

 

"不幸な事故"では済まされない【事件】であると初めて認めた。

 

事故から2年後の1979(昭和54)年、『パパママバイバイ』の

初版が刊行。和枝さんの死から2年半後には、これを原作とした

同名のアニメ映画が公開された。

 

早乙女勝元著『パパママバイバイ』は2001(平成13)年に

再刊された

廃版となり今や入手困難なアニメ『パパママバイバイ』VHS(2点とも和枝福祉会の喫茶室

 

      港の見える丘公園にひっそりと佇む「愛の母子像」

 

  「愛の母子像」の位置から、せめていつもの海が見えてほしい

 

 

   作者は山下公園の「赤い靴はいてた女の子」像を作った方

 

事件について語る土志田和枝さんのお兄さん・土志田 隆さん

 

オスプレイの配備でマスコミが騒然となった頃、兄・隆さんのもと

にも有名な早朝の某テレビ番組から取材依頼があったが、

番組の意向と違ったためか、「訴訟を求めた椎葉さんだけが放送

され、自分のコメントは取り上げられなかった」

 

和枝さんはよく「なぜ私なのか」と言っていたという。

厚木の地形に慣れていない不運もあったかもしれないが、

 

逆を言えば、誰の身にも起こり得るということ。

 

「オスプレイをどうしても配備するなら安全性を確認してから。

パイロットの技術が重要だ」

と戦闘機で身内(和枝さん)を失った兄・土志田 隆さん。

 

「カズエ」と名付けたバラの品種を作ってもらい、父・勇さんは皮膚提供者へお礼に配った。(港の見える丘公園にて撮影)

 

      このような痛ましい事故が起こったことを

      忘れないようにしましょうね。。