記憶として。

 

 

 

 

 

 

先頃、母が逝きました。

退院後1カ月に、あと1日足りなかった。

 

 

 

 

 

 

十日町をジテンシャで走った日に、痛みが強くてパンダ先生に連絡したと母からLINE、父とも電話。翌日、エコーで診るために、また往診してくださるそうだけど……やっぱり、私、帰る。

 

 

 

 

 

 

家族と別れて、新潟から実家へ直行。このとき、大事にかついで持って行った小玉の八色西瓜を、日々、ひと口大に切って食べて…そして他の食物は、ほとんど喉を通らなくなった。

 

 

 

 

 

 

お臍の横、痛みの原因となっている、熱を持った腫れ。CTとマンモでみると、脾腫ではなく膿瘍ではないかというのが、パンダ先生とインパラ先生の診立て。外科の先生に切開してもらうと、やはり脾腫ではない。ただ、膿瘍ではなく腫瘍だった。母の身体状態では、これ以上の処置は不可能だった。

 

 

 

 

 

 

…この日が最後の通院となった。病院から帰宅して、着替えをして、薬だけなんとか飲んで、彼女の身体を横たえたとき

 

 

 

 

 

 

 

 

「母さんは、もう、だめだからね」

 

 

 

 

 

 

 

 

と、私にささやいた。しばらく前から、声は出なかったから。そうだ、いま、言わないと。ちゃんと話ができる最後だ。

 

 

 

 

 

 

 

母さん、あなたの娘に生まれてよかった。また、産んでね。

 

 

 

 

 

 

 

 

これだけは、絶対、言いたかったから。

 

 

 

 

 

 

 

 

「そうかい、じゃあ、こんどは相手が違うかもしれないけどね」

 

 

 

 

 

 

 

 

…と母はつぶやいた。それかよ?!    アンタらしいなぁと泣き笑い。ぽつり、ぽつりと話した。

 

 

 

 

 

 

 

「あちこち行って楽しかったねえ、大洗…」

 

 

 

 

 

 

 

うん、それに長野とか群馬とか茨城に栃木。長崎とか、北海道とか…もっともっと、たくさんたくさん、一緒に出かけたね。

 

 

 

 

 

 

 

こうして話ができた時間は、かけがえのないものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日、親戚の叔母と弟が来て、少し話ができたのが、最後になった。夜中じゅう、痛みが引かない。3時間ごとに強い鎮痛剤を飲ませ続けた。翌朝、パンダ先生がモルヒネ系の薬を入れ始めてくれた。「あと、一両日かもしれません」       言葉通り、この日の夕方、父と私がいるところで、息を引き取った。

 

 

 

 

 

 

 

最後の最後まで、自分の意志が強くて、明確で、目が覚めるくらいスバラシク段取りが良いひとだった。

 

 

 

 

 

 

 

退院後には、自分が亡くなったときは誰に連絡するか、葬儀をどのようにやりたいかも、父と私に話した上で、葬祭場のひととも会っていた。

 

 

 

 

 

 

そのおかげで、迷わなかった。ほぼ、母が望んでいたとおりの形で、見送ることができたと思う。

 

 

 

 

 

 

 

「無宗教がいい、花を手向ける式で」と言い残した彼女の柩の中には、たくさんたくさん、色とりどりの花を入れた。

 

 

 

 

 

 

…母の病気を知ってから、最後を迎えるそのときまで、ひたすら、一緒について来られたのかな、という実感はある。

 

 

 

 

 

 

 

でも、もう、その母はいない。

 

 

 

 

 

 

 

あんなに、面白くて、楽しくて、アクティブで、明るいひと(半面、かなりメンドくさいが…)は、もう、いない。

 

 

 

 

 

 

 

柩の中、きれいな花々に囲まれた顔にそっと触れて、彼女に、またね、と言った。

 

 

 

 

 

 

 

次もやっぱり親子なのかなあ、友だちでもいいんだけどなぁ。。。。

今度こそは、こんな面倒な病気でなくて、もっと長く一緒にいられるといいね、と、どこかで聞いているかもしれない彼女に、つぶやいた。