前回までのあらすじ……

りこ(アラサー、小学生2児の母)は自分の入っていたAさんグループより、Bさんと関わらないよう命じられる。
しかしそこには決定的な理由がなく、悩んだ結果心身を病んで沈没。

詳しくは前回の記事を参照してください。

牛しっぽ牛からだ牛からだ牛からだ牛あたま

ショックから食事が食べられなくなって、眠ることも難しくなって、休暇中の家族の面倒もろくに見られず布団に倒れて屍のように過ごす日々が続きました。

辛かった記憶を何度も何度も反芻して
ぼんやりとした思考の中で考えていたのが、「わたしの子供たちへの教育、今のままでいいのかな?」ということでした。


わたしは日頃から子どもたちに

仲間はずれはいけないよ
いじめはいけないよ
自分がされて嫌なことは他の子にしちゃいけないよ

と言って育てています。


幸い子どもたちのクラスメートはいい子が多くて、恐らくちょっと変わり者の部類であろううちの子も今の年齢まで深刻ないじめにあったりすることなく過ごしてきました。
上差し男子なので多少からかいにあったり、ヤンチャな子から激しめの接触をされるプチ事件は何度かありましたがアセアセ


前の日記で紹介した事件はわたしと、わたしに関わっている人達の間の出来事なので、年齢としてはアラサー・アラフォー世代の人達の間に起こった話。
ちょうど小学生くらいの子を持つ親世代の人の間で起こった出来事なんですね。

偏見による仲間はずれは、それをやっている人達からすると自覚のないことのようだっていうのを一つ前の日記で書きましたが……
「当然のこと」と思ってやっている以上、それは彼らの子供たちにも伝えられていくと思うんですよ。


あの子のうちは片親だから付き合っちゃダメ
とか
こんな噂を聞いたから〇〇くんとは関わっちゃダメ
とか

親から子へ自然と伝わっていく。
それこそ可愛い子供たちを守る、「自衛のため」に。
素直な子どもたちはその教えを吸収して育っていく。


今回はわたしの身に起こった出来事だったけど
いつ似たような事件が我が子の身に起こったとしてもなんの不思議もないですよね。

ただそこで言えるのは、もしそんな事件が起こってしまった時、わたしのように「そんな事には加担できないよ!」って動きをしてしまうと、きっといじめられる側の人間になってしまうんだろうなということです。


現にわたしが今ボロボロの状態。

アラサーで、家庭があり、他のところにも友人や所属するコミュニティを持っていてもこれだけのダメージ。
学校が生活の全てとも言える学生時代に同じような事件に巻き込まれていたとしたら?
命を断ちたくなるくらいに追い詰められても仕方ないと思います……。


近年必修科目になった道徳の教科書的に言えば、

いじめはダメ!仲間はずれはダメ!差別はダメ!

となっているでしょう。


でも現実社会では……?

そんな教科書に書かれてるような意見を言えば「偽善者かよ」って叩かれて迫害の対象になってしまいます。
実際わたしも最終的には上記のようなせりふを言われています。


はっきり言って、“自分の身だけ守る”ことを考えたら道徳的な事なんて言ってはだめで
その集団のなかの力の強いグループに潜り込んで、その中のリーダー格の人間のイエスマンになることが一番安全ではないでしょうか。

グループが誰かに対していじめをはじめたら、決して異を唱えたりせず、一緒になって加担する。
まあでもいざっていう時主犯格だと思われるとめんどくさいので、リーダーから指示がなければとりあえず傍観しておく。
いじめられてる子は可哀想だけど、助けに入ったりすることはせずに犠牲になってもらう……

多くの人がこれを実行しているから、いじめはなくならないし、聴取しようとしたって大半が口を閉ざしてしまう。
みんな自分の身を守るために……


大人がこの状態で、子どもたちに

いじめはダメー!
差別はダメー!

なんて言っても全く説得力はないし、

仮に“道徳的行動”を取ったとしたら自分がものすごい苦境に立たされるというのが今回のわたしの事件で立証されてしまったわけで……


今のまま道徳の教科書に書かれているようなことをわたしが子どもたちに教えていったとしたら、子どもたちもわたしのように、「仲間はずれはよくないよ!」っていう考え方の人に育っていくでしょう。

今まではそれでいい、それが正解って思っていました。

でも、今回の事件を経験して、大人のわたしでもこんなに辛い。

思春期の子どもたちに同じことが起こったら……
それで取り返しのつかないことになってしまったら……

それでも「道徳的な教え」、していて良かったって思えるのだろうか。


「正義」って言われてることが思った以上に社会では少数派の意見すぎて、素直に実行した人たちは耐えきれなくなって社会に居られなくなったり最悪この世からログアウト。
仲間はずれ容認派の人だけがその場に残っていく。

……この状況で良い方向に行くわけがなくない?

どうしたらいいのかな。
自分でもよく分からなくなっています。
いつもブログをお読みいただきありがとうございます爆笑

と、いつものテンションで始めてみましたが、今回はちょっとシリアスなお話。
少し前までこのブログは更新をストップしてしまっていたのですが、その一因にもなってしまったとある“事件”についてお話すると共に、最終的には教育についてのご意見をいただきたく、この記事を綴っています。

長い内容になるため、複数回に分けての投稿とさせていただきますが、お付き合いいただけると幸いです。
よろしくお願い致します。



牛しっぽ牛からだ牛からだ牛からだ牛あたま


・わたしの身に起きた事件の概要について
(詳細を伏せるためわかりにくい部分があるかと思いますが御容赦願います)


とある集団にて……

わたしはご縁がありAさん率いるグループの仲間に入れてもらっていました。

ある日そこにBさんという人物が現れました。
Aさんグループのメンバーは全員Bさんとは面識がありません。

しかし、Bさんの出で立ちが気に入らないというような不明瞭な理由で、Bさんと関わらないように!というお触れがAさんグループの意向としてわたしのところにまで伝わってきました。

まだBさんが過去何か明らかに不道徳な行為をしていたとか、Aさんグループの中の誰かと個人的な対立があって……という事情があるのなら理解ができなくもないのですが、今回はそういった理由もなく。
わたしとしては、そのお触れが腑に落ちません。

試しに

「わたしがAさんグループに残るためには、Bさんとは関わらないようにしなければいけないのか」

と、ちょっと踏み込んだ質問を率直にしてみたところ

「そういうことだ」

というような回答が返ってきて……

わたしとしては、そもそもBさんと関わりがあったわけではないのだし、Bさんのことを省いてAさんグループに居続けるという選択肢もあったのだけど。
もしそのルートを選んだ場合、自分が偏見とか仲間はずれに加担する道に行くことになってしまいます。

しかし、このお触れに従わなかった場合、もれなくわたしもグループから仲間はずれの対象にされてしまうという局面。

わたしとしては、まさか大人になってからこんな問題に直面するとは思わず、その瞬間はただただ「混乱」という他ない状況だったのですが……

結局、自分の立場のために誰かを省くということがわたしの性格上出来ず、悩みに悩んだ結果心身のバランスを崩し、食事や睡眠といった生活の基礎を正常に保つ事が出来なくなってしまいました……。


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事の顛末としては以上のような内容になります。

特にこれという理由もないBさんをなぜ省くようなことをするのか?それって偏見なのでは?
というのがどうしても納得できなくて、そこのところの理由を聞いてみると、「自衛のためだ」というような回答。

例え話になってしまいますが、

「金髪の人はもれなく不良で暴力的な人格だから関わっちゃいけない」

みたいな話で、

「まともな人間であることを主張するにはそれなりのルックスにすべきじゃないか」
(だからこの対応は妥当である)

というようなことだったんだけど

わたしの感性では

金髪と暴力的な人格はイコールで結び付けられるものじゃないよね?
なにか事件があったわけでもないのに、無視したりするのはおかしくない?
問題が起こってない以上はほどほどの距離で共存したら良くない?

って思っているので、ここで意見が分かれてしまっているのです。

牛しっぽ牛からだ牛からだ牛からだ牛あたま


今回の件で思ったのは、
いじめってこうして起こるんだな……
ということ。

自分(たち)とは性格や外見などの属性が違う相手が現れると、それは“異分子”として認識されて、排除しようという流れが起こってしまう。

仲間はずれにしている側は自分たちのグループの恒常性を守るためという理屈で動いているため「妥当な行動を取っている」という認識。

結果的には仲間はずれにしてるけど、いじめたつもりはないし、というか仲間にしてほしいんだったらそれなりのスペックを備えた状態で来てね

っていう……

別に普通でしょって意識なんだってことを思い知らされて、わたしはそれが非常にショックでした……。


今回の登場人物の人格が破綻しているかといえばそんな事はなくて、きっと誰に聞いても
いじめはいけない、仲間はずれはいけない、という回答が返ってくるでしょう。

問題は、
「自分のケースはこれには該当しない」
或いは
「この場合はしょうがないじゃん」
って思ってしまっていること。

仲間はずれにされたり、いじめられたりされてる側の人間にとってはそれは非常に重たい問題だし、事と場合によっては生きることすらやめたくなるほど辛くなってしまうような事だけれど

やってる方は全くなんとも思っていないんだな……。


それを間近でまざまざと見てしまった感じで、わたしはそれが恐ろしくてたまらないのです……


久しぶりの日記投稿になってしまいました。
前の日記にも似たような事を書いた気がするけど、更新ペースが減ってしまってすみませんあせる

ここ半年くらいわたしの個人的な事情によりバタバタした生活を送っており、その最中にショックな事件もあったりなんだかんだであまり元気を出せずにブログを書く余力なし!という状態でしたショボーン

わたしがモタモタしている間に幼稚園児だった次男が卒園し、子どもたちが2人とも小学生になったので、今回の記事より公式ブログジャンルを子育て(小学生以上)に変更させていただきます。今後ともよろしくお願い致しますお願い


さて、今日はどうしてもブログに書き残しておきたい出来事があり、久々に投稿しようとAmebaアプリを開きました。
もしよろしければ、お母さんのちょっとした自慢話にお付き合いいただければ幸いです照れラブラブ


これは、昨日家族で買い物に出掛けたときの出来事。

学校は夏休み。大人はお盆休み前という今の時期。
かなり大きな規模のお店ということもあり、平日ではありましたが店内はたくさんのお客さんで賑わっていました。

通路は広めにとってあるお店なのですが、混みあっているためにお客さんがいっぱい。
そんな中、年齢にしたら小学校3年生くらいでしょうか。
男のお子さんが、1人でカートに足をかけて“滑って”いました。

子供がやりがちな、ショッピングカートに片足をかけて反対の足で勢いをつけてキックボードのように飛び乗るという、よく見かけるアレ。

(あああ!お年寄や妊婦さんも近くに居るのに!あああ……ガーン)
とわたしがアタフタしている中、小1になった次男が一言。

「お母さん、あの子 あぶないねーショボーン


その時はあまり気に留めていなくて、「うん、そうだねぇ」って感じで軽く流してしまったんですが。
後になってからあれっ!これって実はすごいことなのでは!?と感動してしまいました。


小学生の子からしたら、カートに乗って滑っていく行為というのはとても魅力的な遊びだと思います。
わたしはそれを子ども達に対して固く禁じているけれど、本心では彼らだって同じことをやってみたいなって思う気持ちはあるはず。

それでも、「周りの大人に叱られるから」という理由でガマンしている子はたくさんいると思うのですが
(そして、今回の件のようにガマンできない子もたくさんいると思うのですが)

(お母さんが怒るから)
「ダメだよね」ではなくて、

「危ないよね」
っていう感想が次男から自然と出てきたということは、日頃わたしが子ども達に口を酸っぱくして伝えていた

「カートに足をかけて乗ったら危ないよ。
滑って転んでケガをしちゃうかもしれない。
自分はケガをしなくても、他の人にケガをさせて悲しい気持ちにさせちゃうかもしれない。
だからやりたくてもガマンしようね」

っていう言葉が、正しい意味で子どもの心に伝わっていたっていう証拠なんじゃないか。


これは親として絶対にスルーしちゃいけない出来事だと1日たってから気が付いて、子どもたちとわたしの間でやっている交換日記に

・お母さんは今回のことがすごく嬉しかったこと
・これからも周りの人がみんないい気持ちで過ごすためにはどうしたらいいか考えられる人になってほしいこと

書いて伝えました。


とにかく、なるべく早く「お母さんは感動しました」っていうレスポンスを子どもに伝えなければ!と思いました。


大人はついついダメなことを厳しく叱りがち。
その一方で良い事を褒めるのを忘れがち。

今回もすぐに気づけなくて、1日経ってからの声掛けになってしまって、わたしもまだまだだなぁと反省しきりなんだけれど。

これからも子どもの良い部分にしっかりとアンテナをはって見ていってあげたいなぁと思う出来事でした。