親の責任てどこまで?

大人の責任てどこまで?


人間の成長って、いくつかの段階があって、大きく分けると、

自我が芽生えて

行動が自由になって

自らの選択で道を決められるようになる。



日本での義務教育は中学卒業まで。

それまでは

働くことよりも、勉学などを優先して

親や大人がその環境を、ある一定の当たり前を、

子供に与える。




私は高校の1年生の時に事件に遭遇して

自らこの呪縛を1人背負うことを選択した。


それは一種の、自己責任を1人で抱える、ということだったんだと思う。


だから、私はその時から、自らの行為は自分に返ってくると自覚して行動していたんだと思う。


私でいうと、15歳だった。


そんな感覚が芽生えた時に、恐らく親の責任は徐々に薄れていく段階に入ったんだろうなって思う。



中学を卒業して

進学や就職という選択肢が人によって出てきて

半径1キロぐらいの生活圏から

一気に広がっていく。


子供は行動する範囲が広がれば

自己責任が少なからず出てくる気がする。


それに伴って、親も心配事や悩みが出てくるのだと思うけど。

自由と危険は一生追いかけっこしている気がする。



私は電車に乗って、色んな世代の人が世の中にいることを再認識して、

働いている大人がこんなにも朝早くに、

満員電車に乗っていることを初めて意識したのも、

高校に入学してからだった。

大人の背中が大きいことを知って、

そして、親の働く姿を想像した。

世の中のスピードを少しだけ知った。




それまでは、親と以外と行動するのは

最寄りの駅周辺や、遠くても自転車で行ける距離の範囲でしか、行動してこなかった。


親の庇護のもとで過ごすことは、恵まれているけれど、

長くなればなるほど、甘えへと繋がっていく気がする。


だから、私は高校は近場ではなくて、

電車に乗って遠い距離を移動する、

ということに関しては、とても良かったように思う。



もちろん、嫌なことをたくさん経験したし、

痴漢にもあった。

変な人に最寄りの駅まで、

ついて来られたりもしたけど。



恐らく一般の人の平均の10倍ぐらいはそんなことに遭遇してる気がする笑



世の中、守られてる範囲だけでなく、

きちんと、怖さも危うさも

身をもって感じることは大切なことだったと分かった。


私は外に出る時の服装は、昔から大人びてると言われることが多かった。


大学生の時は特に。

派手でもなく露出も少なく、

スカートの丈も膝より上にすることは無くて、

清潔感と落ち着いた服装を好んでいた。


ZARAのタートルネックを愛用して、パールのネックレスとピアスだけで変化を楽しむのが好きだった。


極力、狙われないように、そんな服装をするようにしていた。

きっとそれも親には気付かれてはいないと思う。


流行のものが着たかったわけではないし、



流行っている=可愛い。好き。



とは思わなかったけれど

今思えば、もうちょっと若さを楽しんでもよかったなって思う。

もう、あの若さならではの服装はできない。笑



私の人生は

めちゃくちゃだったし

別の力によってぐちゃぐちゃにされて

今も病気で苦しんでいるけれど。


それでも、これは私が背負う責任の結果なんだと思う。



ただ、私の両親はきっとまだ責任を感じている。


私はもう36歳になる。


なのに、私のこの体のことや

人生において、生活において責任を感じているみたい。


親はいつまで、親なんだろうか。


子供はいつまで、子供なんだろうか。


こんな偉そうなことを書きながらも、

きっと今でも、気づかないうちに、

70近い父と母を目の前にすると、私は子供の顔をしてるんだろうな。



てへぺろ