桜の便りがあちこちから聞こえはじめました。
それどころではないことも(決算とか)多々あるし、
この時期はアレルギー性鼻炎もひどくなるし、
個人的には手放しでは喜べない季節だけれど、
桜が咲いている風景を見ると、
そんなことも忘れてしまうのはなぜでしょうね。
さらに、桜を見ていると決まって、
「去年の桜の頃はどうだったかな」とか
「いつかの桜の頃は…」と
過去の出来事をあれこれ思い出したりします。
これって、私だけかな??(笑)
今の私は、そんな「いつかの私」の未来。
過去の一刻一刻は、今日になって、
今日はまた、明日、明後日と
未来に向かって途切れることなく
つながっています。
それは意識するまでもなく
この瞬間も時間は刻刻と流れています。
これが人生のターニングポイントだと
はっきりわかっている出来事だけではなく
たくさんの時間の経過のなかで、
事の大小に関わらず選択してきたことが
今日の自分になっているんだと考えると
日々の越し方、暮らし方を
ちょっと意識してみたくなります。
高校卒業間近のころ、
今は亡きドイツ文学者・高橋義孝さんの
講演を聞く機会がありました。
当時、生意気でひねくれていた私に
担任教師が「俺がいけなくなったので
代わりに聞いてきてほしい」と
講演のチケットを譲ってくれたのでした。
『人は、何かをやりながら
別の何かをしていることがほとんどで、
その一時一時を意識することは少ない。
人は、死ぬまで生きる。
だから、刻一刻を精一杯生きるのだ』
要約すると、そんな内容の講演でした。
翌日、担任に呼ばれ、講演内容を報告し、
「それで、要点は何だと思う?」
と聞かれたとき、私は、
「人は死ぬまで生きる」と
ひねくれて答えました。
人は死ぬまで生きる。それは真理。
でも、講演の一番の趣旨(要点)は
「刻一刻を精一杯生きる」です。
わかっていたけど、
18歳のクソ生意気な私は
なぜかそれを答えたくなかった。
その頃の私は、
自身を大切にしていませんでした。
だから、一刻一刻を精一杯になんか
生きていない。
やりたかったこと、目指したかったことを
ことごとく親につぶされて、
どうでもいいや、と思っていた。
なりたいものになろうとする気持ちが
なくなっていた時でした。
「そうか、お前の要点はそこか。
お前にはまだわからないかもな。」
私の答えに、担任はそう言いました。
正しい答え(?)を言えなかった
ひねくれた自分への腹立たしさと
「お前にはまだわからない」と
言われたくやしさとで
泣きながら家路についたことが
忘れられません。
40年以上も前の「いつか」の
その講演と
それにまつわる出来事は
その後も
たくさんの些事に絡まりながら、
今日につながっています。
そして、
明日とか来週とか
人が便宜上名前をつけている
この先の「いつか」に
なっていくんですね。
生意気だった18歳も還暦を迎え、
これまで生きた分より、
これから生きる分は多分短い。
人は死ぬまで生きるから、
だから、
今日、精一杯やっておこう、
今日、やりたいことをやろう、と
そんなふうに思って
毎日を過ごしているわけです。
それはそんなに難しいことじゃなく
今日一日、やりきったぞーとか、
楽しかったーで、いいと思うんです。
未来を変えるのは
意外と小さいことや
些細なことの積み重ねだったり
するんですよね。たぶん。