軍事博物館、そして、ダナンからホイアンに来ました。


ホイアンはむかし日本人街があった程、日本との交易が盛んだった場所です。
その後、日本の鎖国政策から日本人街は衰退して行き、中国人華僑の人々が多く移り住み、現在では、古い中国系の建物が残る町です。

1999年にはこの町並みがすばらしいとユネスコの世界遺産に登録されています。。





昨日、このホイアンに来る前に、ハノイの軍事博物館に行く事が出来た。
$見えない世界の本当の事。


わたしは、ホーチミン市が独立の祖となるホーチミン氏の名前から由来している事すら知らなかった。。



ベトナムは中国と国境を接しているため、古来から中国やその他の周辺諸国から占領される歴史を持った国です。それまで何度となく中国の保護下に置かれる事の多かったベトナム。

一言で言えば占領される歴史をずっともっていた国家と言えると思います。





そして220年前、、、


1788年国内の紛争時、フランスの志願兵と宣教師の助力を仰いだことを切っ掛けにフランスの進出を許す事の成ったベトナムは、1858年、ダナンに砲撃を加えられフランスより開国を迫られました。

一部の土地の使用とカトリックの布教を認められたフランスだったが、農村部での強い抵抗にあい、ついに1882年、ハノイを軍事占拠するに至り、ベトナムは実質的にフランスの植民地となりました。


当初、反発がいたるところで発生していたが、中にはフランスへの協力者も現れていた。。

フランスにとっては支配しやすい植民地であったが、ベトナム人にとっては許しがたい搾取の連続で当然のように、強い反仏運動が繰り返されました。



第二次世界大戦初期、フランスがナチスドイツに敗れると日本軍は北部ベトナムに進軍し、さらにベトナム南部にも進軍していく。

この時、日本がフランスとの協定を結んだため、日仏の二重支配をベトナムは受ける事と成る。


1945年、日本の無条件降伏が決まると8月ハノイで革命がはじまった、そしてポツダム宣言では、北部を中国が南部をイギリスが日本軍の武装解除を行なう事になったのだが、9月イギリスの支援で、またもやフランスの再侵略が始まり、北緯14度線で分断された南部はふたたびフランスの支配下と成り、長い南北分裂が始まりました。

北部では、翌年の総選挙でホーチミン氏が指示95%という圧倒的な支持を得、南部の同胞に呼びかけをおこなった。同年11月にはフランス軍が北部へ攻撃を始め、第一次インドシナ戦争が勃発。

一時はフランス軍の方が優勢であったが、本国が経済波錠をきたしはじめたため戦闘は長期化した。

1950年、中国とロシアがベトナム民主共和国を承認し、長い孤立の時代は終わった。
しかし、アメリカがフランス側の政権を承認したため、ベトナム共和国はフランスに対し反抗に転じ、フランスを大きく消耗させた。。

このころからフランスはアメリカに依存するようになります。

有名なディエンビエンフーの55日間に及ぶ戦いで、フランス軍は敗れ敗走して行き。。。
これにより植民地時代からのフランスとの戦いは集結しました。


北部では南北統一の憲法が公布されたが、南部ではまたもやアメリカの後押しでジェム政権が誕生した。だが、ジェム政権は人民に激しい弾圧をした為に、民衆を武装闘争に向かわせて行きました。

反米、反ジャム政権が公然と起こり、労働者や農民もジャム政権に抵抗し南ベトナム解放戦線ができ、第二次インドシナ戦争が起こりました。


(トンキン湾事件)
1964年8月2日と8月4日にトンキン湾で発生した北ベトナム海軍の魚雷艇によるアメリカ海軍の駆逐艦「マドックス」への魚雷攻撃事件への報復を口実に、翌8月5日より北ベトナム軍の魚雷艇基地に対する大規模な軍事行動を行った。

この軍事行動はアメリカ国民からの支持を受け、8月7日には、上下両院で事実上の宣戦布告となる「トンキン湾決議」が可決された。

(なお、1971年6月にニューヨーク・タイムズの記者が、ペンタゴン・ペーパーズと呼ばれるアメリカ政府の機密文書を入手し、8月4日の2回目の攻撃については、ベトナム戦争への本格的介入を目論むアメリカが仕組んだ捏造した事件であったことを暴露し、マクナマラ国務長官も1995年に同様の内容を告白している。捏造は8月4日の事件であり、8月2日に行われた最初の攻撃は、アメリカ海軍の駆逐艦を南ベトナム艦艇と間違えた北ベトナム海軍の魚雷艇によるものであることが北ベトナム側も認めている。)




ついにアメリカは本格的な軍事介入に踏み切り、戦争は泥沼化していった。。ベトナム戦争である。

ジャム政権は仏教弾圧も行なった為、世界中の仏教国から批判を浴び消滅、その後新政府を設立したが、またもやその弾圧の激しさから住民のこころをどんどん離れさせて行った。

また、村民の皆殺し事件と言われる「ソンミ村事件」(村民504人殺害、うち妊婦17人、子ども173人、1歳以下の幼児56人)をきっかけに世界世論がアメリカを非難。

アメリカは厳しい立場と成った。



それでも、アメリカは世論に逆らって、無差別攻撃を始め、枯れ葉剤使用や毒ガス弾を使うと言う暴挙に出た。

これによりアメリカ国内でも反戦運動が広まり1973年パリ協定にて、アメリカの撤兵がきまったが、アメリカは実質的な援助と介入はやめなかった。


1975年、ベトナム軍はついに反攻に転じ、1975年4月30日に北ベトナム正規軍は数十万の兵士を投入し『ホーチミン作戦』に打って出た。

ひたひたとホーチミンサンダルの音を響かせながら数十万の兵士と大きな地響きをともに戦車の列が大統領官邸に入ってきた。官邸屋上には解放軍の旗がたなびいた。

このとき、サイゴンを陥落させベトナムは本当の自分たちの地を取り戻した。

$見えない世界の本当の事。

見えない世界の本当の事。

見えない世界の本当の事。

見えない世界の本当の事。



これだけでは書き尽くせないのですが、多くの国の支配下にあったベトナムはホーチミン氏らの活躍でついに長い長い分裂状態に終止符を打ちました。。





この国の独立に、いったいどのくらいの血が流されて行ったのでしょうか?




ベトナム人だけでなく、中国人、フランス人、アメリカ人、韓国人、、




たくさんの血が地に落とされて行きました。


また、ベトナムは幾度もの難しい局面を世界世論やその国の経済事情により活路を見出しています。




わたしたちが声を上げる事やみんなの意志の大切さを見せられたような気がします。








インドネシアで出会った東ティモールのゲリラの方も、わたしたちが独立を手に出来たのは民衆のみんなのこころと支援があったからだ。。と言っていました。


そして、逆側のインドネシアを支援(東ティモールの独立を反対)する人たちが、

「今度はわれわれがゲリラと成って戦う!」

という発言をした時、彼は、

『ゲリラなんてできないよ。だって誰も彼らを支える人がいないじゃないか。』と言いました。








歴史は弱者を悪ものにし、強者を歴史の証人にします。






しかし、軍事力や経済力だけではどうやっても覆せないものもあるんですね。






それは人々のこころです。。


歴史は嘘をつきます。



勝ったものだけの利得を説くのです。。



どんな文章も勝った側の理論でしか綴られないのです。







ベトナムの人々の悲願、ベトナムの独立。




そこへ向けての執念とこころを見せられたような思いです。






人を否定し、相手を否定し、自分だけが正しいようなやり方は、これからは通用しなくなります。

自分を認め、相手を認め、すべてを認める時代がもうすぐそこに来ているのです。




その時代の障害と成るもの、亡くなられた魂とそこに残った残存思念。



浄化、除霊、させてください。





この地の神々と天の意思にそって、、、





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