ブログは滅多に書かない性質だったが、

最近結構積極的に書いていると思う。

それとは別に、毎日せっせと書いているのが日記。

勿論目的が全く違う。

日記は誰にも見せないことを前提に書いているのであり、

ブログは読む人などいないだろう、とか言いながらも、

誰かに読まれても良い、と思って書いている。

 

時々、ブログも日記も、過去のものを読み返すのだが、

今日は、自分の使う「天才」という言葉に受けて失笑してしまったので、

ちょっと独り言として「ブログ」の方に書いてみる。

 

自分は「天才と言う言葉を使うのは嫌いだが」

という前置きをして、結構ちょくちょく天才という言葉を使っているのだ。

 

そもそも中学生の頃の自分は天狗で、

周りの人間からやれ天才だの美形だのともてはやされていたが、

他の誰より自分自身が、自分のことを美形で天才だと思っていた。

因みに中学を卒業して、高校の図書館でプラトンと孔子に出会うまで、

そう思っていた(笑)

 

足は速かったしスタイルは良かったし、

野球も柔道もサッカーも上手かったし、

歌もギターもピアノも上手かった。

なにより自分で天才と思っていたのが、

タイプライターのタイピングの速さと音を聴くときの耳だ。

実際タイピングについては、後に人生を決定づけてしまうのだが、

ここでは耳の話。

 

当時、音楽の先生に無理やりブラスバンド部に入部させられ、

2年間、指揮をしていた。

練習でもそうなのだが、部活がらみでよくオケのコンサートに行き、

フルスコアを見ながら演奏を聴くのだが、

各パートの誰が間違えたか聴き分けるのが得意だった。

後でVnの2列目の端から3人目、ここ違ってたよな、

などとスコアを指差して仲間に話しても、私しか気づいてなかったようで、

当時は相当自信を持っていた。というより天狗状態だった。

これは聴力の聞き取れる周波数レンジに関わるのだが、

これについては、自分より凄い奴がいくらでもいることを知ったのは、

後年、大学に入って音大の友人が出来てからである。

なにしろ、レオニード・コーガンと、他のプロのヴァイオリニストでは、

スケールの正確さがどの位違うのか、そんな話は殆ど周波数計の世界だ。

 

話を戻すが、高1でプラトンに嵌り、授業をエスケープして図書館に入り浸り、

プラトンを読破し、論語を読破した頃に、

自分の「天才」という概念に関する認識が固まった気がする。

天才=天賦の才能ではあるのだが、そこに愛すべき性質としての、

ぐらいのニュアンスを込めたものが私の認識であった。

この時期は、完全にソクラテスに傾倒していたので、

自分の才能を天才などとは思えなくなっていた(先述のように耳だけは別だが)。

というより、天才なんて、そうたいした価値などないと考えるようになった。

 

で、もっとずっと後年になって、

天才と言う言葉自体が自分の価値観から出て行き、

「自分の才能を伸ばしたいという思い」を重視する価値観になっていったのだ。

だから、自分が誰かを「天才」と評するとき、

全然その誰かを褒めていないのだ。

 

なので、褒めてもいないのに、褒めているかのような表現になるから、

「天才という言葉を使うのは嫌いだが」という前置きになる。

 

・・・と、ここまで書いてきて、また自分の文章に受けて失笑した。

日記でもそういう心理状態で前置きしているということは、

日記も最終的に、誰かに見られても良いや、と思っているのだ。