自分でも驚いてしまいますが、抗がん剤治療が終わり手術に向けての気持ちの準備ができていませんでした。

抗がん剤での乳がん治療にあたって、とにかく抗がん剤に耐えることだけ、乗り越えることだけを考えて治療をしてきました。

一番体調が悪い時には、体重も激減し立って歩くこともままならなかったので頭も活動を休止していたのだと思います。

さて、年が明けドクターとの面談も控える頃、手術をするということが俄然現実味を帯び、恐怖となって私の感情を支配し始めました。

出産のために入院した事はあります。でも今度は治療のための手術です。

周りのかたが、ご心配くださって麻酔のこと、手術のこと、入院生活のことあれこれと情報をくださいます。

有難いことではありますが、聞かなければ良かったなあと思うこともたくさんあったのです。

知らなければ恐怖心を持たないこともあるものです。

私は、この頃、気がつくと泣いていました。

自分の体、それも女性としてのシンボルである乳房切除です。立派な胸を持っているわけではありません。

どちらかというと前も後ろも大して変わらないような小さな胸です。でもわたしにとっては、大切な体の一部。これまでの人生を一緒にしてきた胸なのです。

悲しくないわけはありません。

ある日、泣いている私に主人はこう言いました。「僕にはあなたの本当の悲しさをわかってあげることはできない。でも、胸をそのままにして、せっかく抑えられていた癌の活動が始まることの方が僕には辛い。手術は悪いところを体からなくすために僕は必要な事だと思うしかないんだ。1日でも早く、癌細胞を取り除いて欲しいと思う。」

そうなんです。本当に主人の言う通り。主人の言葉は、私の様々な感情を抑え込むのに充分な言葉だったのです。

私の望みは愛する家族、主人と生きていたい。その一言につきました。

何も欲しいものはなくなり、家族と本当に私を思ってくれる友人が数人いれば豊かな人生だと心から思ったのです。

私はこんなにも素晴らしい人々と一緒にいるのに手放すわけにはいきません。

その翌日から、私は淡々と入院準備を始めました。

入院中、自分の枕の方が良い、パジャマやタオルはレンタルした方が良い、下着も洗濯をしなくて済むように処分しても惜しくないものを揃える、入院中の食事が少しでも豊かになるようにご飯のお供を持って行く、コーヒーや紅茶を準備する、手術後に腕が傷口に当たらないように抱き枕を持って行くと楽に横になれる、パジャマの下に着る肌着もできれば前びらきが楽に着替えられる、体が乾くからボディローションやハンドクリームは必需品、こんなアドヴァイスをもらっていたのです。そしてどれも役に立つアドヴァイスでした。

さらに大好きなヨーグルト、プルーン、お見舞いにいただいた柑橘類なども準備しました。


入院するのは手術前日。コロナが流行り始め、抗原検査をするために朝9時半までに病院に行かなければなりません。

主人の運転する車に乗り、私たちは何の話をしたのでしょう。記憶がないのです。車窓から見慣れた風景を眺めながら帰りたいと思っていたのだけは覚えています。病院はコロナ、その他の感染症を防ぐために、家族や面会の人は病棟の入り口までしか入ることができません。

たくさんの荷物を持って、病棟のインターフォンを押すと、受付事務の女性が迎えにきてくれました。

翌日の手術前の面会には主人と息子が来てくれることになっていたので、翌日の約束を確認して慌ただしく入院となりました。

入院の当日は、事務手続きの他、検査、翌日の担当医、麻酔科医、看護師、入院中の担当看護師の方々が入れ替わり立ち替わりいらっしゃいます。

承諾書にサインしたり、説明を聞いたりとなかなかのハードスケジュールです。

事務の女性に一通り、病院での過ごし方、ロケーション、注意事項など教えていただきました。

麻酔科医の説明は全身麻酔によって起こるかもしれないあれこれが詳しく説明され、いやが上にも緊張が高まりました。


お風呂にも入り、病院での夕食が出される頃は、すでに疲労感満載でした。

カーテンでぐるりと囲まれたベッドの上で1人で取る夕食は、何の味もしないのでした。

自宅から持ってきたフルーツを食べ、早々にベッドに横になりました。けれど眠ろうにも、人の気配や、明日の手術を考えて眠れるわけもありません。

明日には無くなってしまう胸にお礼を言いました。息子を母乳で育てられたのですもの。感謝の気持ちでいっぱいでした。



病院の朝は早く6時には病室の電気がつけられ起床となります。

洗顔だけを済ませ、看護師さんから声をかけられるのを待ちます。ぐるりとベッドの周りをカーテンで仕切られていますが、窓側のベッドだったので窓側のカーテンを開けると、昨日主人に送ってもらった高速道路が見えます。2人で買い物に行った商業施設も見えます。

病気は誰が悪いわけでもありません。けれど1人ベッドで手術までの時間を待っていると私の何がいけなかったのだろう、食べ物が悪かったのか、

つい、犯人探しをしている自分がいました。答えのない無限ループです。

手術当日は絶食なので何もすることがなく、ぼんやりベッドに座っっていました。

とても若い看護師さんが、手術着に着替えるよう促しにきました。主人と息子の待つ病棟の入り口に歩いて行きました。

2人の顔を見て泣きそうになりました。交わす言葉もなく、エレベーターで手術室の前まで一緒にに歩いて行きました。見るからにベテランの看護師さんが、手術着を着て待機していてくださいました。

「ここからは私がお連れしますね。」と言われ、歩くよう促されました。

私は主人と息子に手紙を書いていました。どんなに2人のことが大切なのか、幸せな毎日を過ごしてきたのか伝えずにいられなかったのです。2人の手の中に手紙を滑り込ませました。

息子と主人にがっしりとハグをされ、「大丈夫だから。」どうしたって涙が出てきます。もう1人若い男性の看護師さんがどこからか

ティシューを持ってきてくれました。ベテラン看護師さんに抱き抱えられるようにしてたくさんある手術室の前の廊下を進みました。

私はなるべくあちらこちらを見ないで、看護師さんの導いてくれる場所まで進みました。

担当である執刀医のドクターが、他のドクターと話しながらも私の様子を伺っているのがわかりました。

手術室に入ると、テキパキと麻酔科医が指示を出し、ベテラン看護師さんが澱みなく答えます。

酸素マスクをつけられ、麻酔科医が「眠くなりますよ。」と3回声をかけてくれたところで私の記憶は有りません。


次に記憶があるのは、執刀医の先生が、術後の私の傷を手当てしている時でした。

この時、私は先生とハイタッチをしたと思っていたのです。けれど、後ほど息子に聞いたのは、術後、すぐに執刀医に家族が呼ばれストレッチャーに乗せられた私と面会し、パッチリ目を開けて主人とハイタッチしていたらしいのです。残念ながらこの時の記憶は全くありません。

術後6時間したころ、看護師さんが私の様子を見にきました。「立てますか?」と促されましたが、全く立ち上がることができません。

そのままベッドに寝かされ、体からいろんな管が出ているなと思ったのが最後でまた深い眠りの中に吸い込まれていきました。

翌日、何時ごろかわかりませんが、再度看護師さんが様子を見にきてくださいました。今度は歩けましたので、いくつか管を外され、ベッドに寝かされました。

手術を終えた胸は、止血帯ががっしりと巻かれ胸がなくなっていることの確認はできませんでした。

その後も麻酔の影響か、うつらうつらして1日を過ごしたのです。

朝夕、執刀医の先生が様子を見にきてくださいます。さらに手術室で、テキパキと指示を題されていた麻酔科医が、病室に来てくださいました。

「痛みに弱い。と事前に伺っていたので、一番辛いところを眠ったままでいられるように麻酔を調節しましたが、いかがでしたか。」と」聞きに来てくださいました。この先生のご配慮で思ったほど痛くて痛くて辛いと言うことはなかったのです。これは大変ありがたかったです。

手術の翌日からは、寝たきりにならないように、なるべく病棟の中を散歩するようにと看護師さんから指示がありました。

こうして手術を終えた私の入院生活が始まりました。


このブログを書いているのは術後およそ1ヶ月が経ってからです。

痛み、術後に必要な自身のケア、心模様 あまりに思うことがたくさんあり、

なかなかブログを書く気持ちになれなかったのです。


入院中の生活はまた改めて書き足そうと思います。