こんにちはニコニコ





当ブログは、ブログだからといって思ったことをつらつらと書いてしまうと、まとまらなくなるし、ただでさえ子どものことになるともう、いたたまれなくなるのをわかっているのに、読んだら余計に混乱するような文章になると、私としても責任を感じので、




まず思ったことを別のメモ帳に打って、それから、清書をしてこちらに残してます。





なので、堅苦しい文脈になっているのは、混乱を避けたいというおもいからなのです。できる限り学びとなる記事を書きたいと思っています。




私自身、息子の不登校ではかなり落ち込んだことと、誰にも相談できず地獄のような毎日だったため、頼る人がいてくれたらどんなに心強いだろうと思っていたので熱を持って書いてしまいます。






当時の担任の先生はほんとよく寄り添ってくださいました。中学校全校生徒1000人くらいだったと思います。



その中でうちの子を入れて不登校が3人くらいだったので、めっちゃ少ないですから、返って目立ちますのでそういうことを気にかけて、




夕方勉強を教えに家に来てくれるのが週2回、車の送迎してくれて保健室登校を週2回、これを出席日数にしてくれて、ありがたかったです。




子どものグレーゾーンを勉強してくださり、息子のことを理解しようと努めてくださって、良い先生に巡り会えたことに感謝しています。




というのも、小学校の担任教師は中学校で問題を起こしたために、小学校の教師になったらしく、正規の小学校教員試験に合格していない人で、噂通り暴力的で、宿題忘れた子どもには胸ぐらをつかみ😱乱暴な言葉でと机を蹴ったりして統制かける、アホ教師だったので、教師に対する嫌悪感がありましたから、それ以外ならどれほどありがたいか、身に沁みます。




学校は、社会を学ぶところでもあるのて、周りと合わせなければならない、それが当たり前だから、と私も当時は思って生きてきましたが、息子が成人してからは、そんな考え方は古くてしょうもないと気づくほど内面的に変わるきっかけに出逢い、





あんなにキリキリと将来を心配しなくて良かったんだ……、将来職につけなかったら浮浪者になってしまう…どうしよう、、、と不安になることなかったんだ、と腑抜けになりました。





人生は、ぐるっと一通り全部体験してみないとどこがどうだったかとか、ここがどうだったとか、こここうしとけば良かったよねとか、ここでこうすれば良かったんだよ、とか検証できませんよね。今まさに、それ、真っ最中ですから検証なんてできません。





そして通常は、検証し終えた頃には、その結果を自分の人生に反映させることはできないですよね。(伝わります?)





進学どうする?テストどうする?登校どうする?食事とった?髪切りに行きたい、でも人に会いたくない、坊主にして、勉強どうする、学校の先生来る、、、、そんな目先のことに追われて、一日が3日分生きたくらいの疲労感と共に、気づけば子育てがあっという間に終わってしまいましたからね





子ども達の時間感覚と、30、40、50代の時間の過ぎる感覚は異なるので、疲労回復にも何日もかかるし、




いつも頭の中は心配と不安がセットなので、顔とか唇とかカサカサでした。どんどん老いてく自分を見るのはしんどかったのです。





もともと自分のことが大嫌いでしたから、こんな私が息子をこんな人生にしてしまった、、、という被害妄想と罪悪感のセットでした。

(今ではしょうもなく気ままな子どもみたいな自分ですが大好きで)





そんな自分のこと大嫌いで悲しい思いを持つ母親を子どもが見たら

母親が笑ってないなんてわかったら




子どもは「ああ、自分のせいだ…」と思ってしまうのではないか?ということさえ、予想できませんでした。




子どもは、親に笑顔になって欲しいのです

ね、そんなこともわかりませんでした。愚親。







これは、自己啓発やスピリチュアルを学んだからわかったことですが、



自分のせいだ、とおもうことで自分を責め、そして自分が苦しい自分が悲しい自分は子どもが心配だ自分は子どものことが不安だ、、と言いながら、子どものことを見ているのではなく自分のことを見ているのでした。自分のことに意識が向いているわけですね。






つまり、親が幼い頃、親から無条件に愛されなかった場合、それって条件付きの愛情ですから、親の子ども時期のココロの中には不足感が残ったままです。満足していませんしてほしかったことを我慢していますから悲しみとして残っている。そういう満たされるべき時期に満たされなかった未解決の悲しい思いを、我が子に映して、、子どもの頃をやり直しをしていたりするということが、子どもの不登校として現れているという捉え方です。






ですので,自分が自分で子どもを不登校にさせていた、、、と後に分かり、膝から崩れ落ちました。





子どもが悪いのではない。良い悪いもそもそもないのですが、自分が原因だった…という、心理学的見解を得ることによって、





全ての人間関係から解放され、悩み、苦しみどころか悲しみも消えてしまい、息子との関係は一変仲良くなり、絆は深まり、



 

『産んでくれてありがとう』『育ててくれてありがとう』と言われるなんて夢にも思いませんでしたから、目の前が幸せだらけになった、という体験を、黙っておくわけにはいきません。





これ美味しかったよ!とオススメするような感覚で、このやり方良かったよ!、これが一番効果早いよ!、と書いているのが私のブログです。





心理士やスクールカウンセラーの中に、不登校の経験がある方なら心強いかもしれません。しかしほとんどが体験がないので、、、(ほんと口悪いですけど)、マジ心こもってなくて、、言うだけ無駄だったなぁ、時間もったいなかったなぁ、という複雑な気持ちになったのは言うまでもありません。





うちは中2の時に転校もしているので、更なる地獄になったのも、あなたの想像通りです。





不登校はデリケートなことなんです。だから経験してない人の意見や助言ほど的外れでして、悲しくなります。でもデリケートだからといって、気を遣ってると解決もしないんです。





そのことがわかったのは、さっきも書いたように、子どもが成人して、私が変わるきっかけであった、自己啓発とスピリチュアルを学んだからです。総合的に俯瞰して、分析検証ができたということです。





もしも、自己啓発もスピリチュアルも学ばなかったら、ただ悲しい出来事体験した、、親子絶縁で終わる人生でした。多分わたしは生きていません。




自己啓発系だけでは、論理優先なので物質主義的な見解という”対処”、西洋医学の応急処置のように、対処しかできなかったのです。




ですが、スピリチュアルの宇宙の法則とか、魂とかそういう類いのことを学んだので、非言語の方、感性を活かす、精神主義の見解も加わったのです。



けれども今は、宇宙の法則や、魂というスピリチュアル独特の概念は、もう私の中にはありません。



分類することなく、うまく融合した感じです。



特に私は毒母と育ちで、HSPなので、本来は感性優位ですが、それでは生きていけないと、離婚宣告された時に気づき思考を鍛えました。しかし思考を鍛えられば鍛えるほど、子どものことがわからなくなっていきました。




そうして子育てが終わってしまって、感性を戻す生き方に変更して、感情の取り扱いをマスターして、俯瞰してみることができた、だから分析検証ができて、ここで書いているというわけです。




自分の人生を今振り返って、この人生で良かった〜!と思いますか?




もしもそう思わないのでしたら、それは問題です。







今日も長くなってしまいました。

読んでいただきありがとうございます😊


また書きまーす♪