こんにちはニコニコ









子どもが学校行事に参加できないことについて親として感じることは、さまざまな思いが交錯する場面ですよね。時に胸が締め付けられるかもしれません。時には自分を責めてしまうでしょうし、家族内で言い合いになることもあるでしょう。





うちは当時私の両親、つまり息子の祖父祖母と同居していたのですが、祖父が学校に行けないことを全く理解できませんで、学校に行け、行けとうるさかったです。





その口うるささから我が子を守るために、仲介をする心的負担の方に時間をかけてきました。






口で言ってもわからないなら、紙で伝えよう!って画用紙に大きな文字で、診断名と医師の見解と、「これからどう付き合うのが良いか」を書き記したものを渡して、これをよく読んでください、とお願いして、ようやく理解に至りました。





それからは、何も言わなくなり、むしろ車で外に連れてってくれたようだ、と後から写真をもらってわかりました。






写真を見て、自分で着替えをして行ったというのが分かるので、ちょっと安心しました。まるっきり外に出られないのではなく、車でなら誰かに見つかることもなく、出られることがわかったのは、安心につながります。






けれども、学校での体育祭や授業参観、修学旅行など、学校生活の大きなイベントは親にとっても特別な意味を持ち、子どもにその楽しさを感じてほしいと願うのも自然なことです。





しかし、必ずしもそれらがすべての子どもにとって「楽しい思い出」になるわけではありません。






実際のところ、元々集団での行動が苦手だったり人前に立つのが嫌いな子どもにとっては、学校行事はむしろ負担に感じることが多いです。そのような子に無理に参加を促しても、かえってストレスを抱えさせることになる場合もありますよね。






私たち親は、どうしても「学生時代の思い出を作らせたい」という願いを持ちがちですが、これも親自身の主観でしかありません。





大切なのは、子どものタイミングで、彼らが「本当に楽しみたい」と感じられるように行動を起こせる環境を少しずつ整えてあげることだと感じました。






クラスメイトとの思い出がないより、あっ方がいい、と親は思いますから、学校行事を通じて得られる経験や思い出はもちろん貴重なのですが、それ以上に大切なのは、子どもが安全で安心できる環境を持ち、リラックスして自分らしく過ごせる時間を持つことです。






これは、親の経験から見ても、長い人生を生きていく上で非常に重要な土台となります。私自身の子育てを振り返っても、学校行事よりも、家庭でリラックスできる場所を提供し、子どもが自分自身と向き合える時間を作ることの方が、結果的に子どもの成長に大きな影響を与えたと感じています






例えば、私の子どもは中学の修学旅行には行きませんでしたが、後に高校2年生のときに、私が京都に連れて行きました。






このまま旅行もなく学生時代を終わらせるのは不憫だと思い、半年程計画を練ってきました。京都のガイドブック数冊と時刻表を購入して、「最終的に行かないと言われてもいい」、とりあえずできるところまでやろうと決めて。






思春期の男子が、女親と一緒に行動するのは嫌がるのは分かっていましたが、きっと大人になってから良かったと思うだろう、と自分を信じました。






繊細な息子ですから、本人も少し嫌がっていましたが、いざ京都に着けば、見たことのないお寺や京都の雰囲気に感動してました。食べたことのないお蕎麦やお菓子、坂道から見える景色、静かな裏道、冷たい空気と、水溜まりに落ちた紅葉🍁、トロッコ列車の面白いおじさんのアナウンス、お土産を買ったり、とそれなりに楽しめたようでした。




確か12月だったような気がします。

紅葉の時期が終わった後なので静かでした。

当時の清水寺は修復中で布張りがしてあったと記憶してます。





銀閣寺はギリギリ1時間前に到着して

夕暮れの中を巡りました。




私が最も好きな建仁寺です。






2泊3日で、栃木から高速バスで京都へ。

その足で嵐山方面へ、そこからぐるりと京都市内へ。

京都駅ビルで夕食。


2日目は渉成園から八坂神社などぐるりと市内へ。

清水寺下の陶芸教室で陶芸を作り、色々巡りました。


3日目は大徳寺や二条城、

クタクタでしたが、主要な寺院を3日間かけて訪れたことが良かったです。帰路は新幹線で。



比叡山に行ってみたいと言われていましたが、移動時間を考慮するとどうしても組み込むことができず。


そんな思い出は、今でも懐かしく。









電車好きなのが幸いして、新幹線や在来線とバスを乗り継ぎ、主要な寺院を回る経は、やっとつい最近になって感謝されるようになったんです。






連れてってくれてありがとうと、大人になってから聞くのはとても嬉しいです。これは、私が「学校のイベントだから」という理由で無理に参加させなかったからこそ、後で自分のタイミングで興味を持つことができたのだと思います。






親としては、学校行事に参加できないことで「大事な経験を逃してしまうのではないか…」という不安を抱くこともあるでしょう。






しかし、人生は学校生活だけがすべてではありません。大人になってからでも、人とのつながりを作る機会はたくさんありますし、学校行事の代わりに、家庭で過ごす安心できる時間や、小さな日常の出来事がかけがえのない思い出となることもあります。






子どもの感性は、親が思っている以上に敏感です。「こうしてほしい」「あれをさせたい」といった親の思いが押し付けでなければ、子どもはきっとその愛情を感じ取ります






親ができることは、子どものタイミングを尊重し、そっと寄り添い、見守ること。ハグをしてあげること、肩を抱きしめてあげることで、安心を表すことができると思います。それが、子ども自身が自らのペースで未来を切り開いていくための大切なサポートとなると思います。






大事な子ども期に自分の意見を受け容れてもらえなかった思いは、自己肯定感を無くします。自己否定しかできませんし、思考の癖が、ありのまま、そのままを受け取ることができません。




この世界には“無償の愛”しかなくてそれをもらえると、私たちは誰もが思っています。誰もが思っています。けれども子ども期に子どもが思う時に、思うように構ってもらえなかった、受け容れてもらえなかった不甲斐なさは、悲しみとして、憎しみとして、怒りとして、大人になっても悪影響を及ぼします、、、。その私の経験があるので、親は子どもより数年多く生きているだけなのだから、物知りだなんて決して親ヅラしない方がいいと思います。親の権限なんて親自身の顕示欲で幻想です。





私は健全な家庭で育っていません。そんな私でもなぜか子どもを健全に育てられたかもしれません。かも…というのは、現時点では、自立していて、健康に物心豊かに、穏やかに、友達もいて自分軸でいきていますが、私が死んだ後、息子がどう生きるか、まではわからないからです。




私が死んだら、もしかしたら私への隠されていた憎しみが蘇るかもしれません。その時彼はどう生きるのか、がわかりませんから。しかしながら健全に育つことが目的でもありません。健全の概念も人それぞれですし。どんな育て方、どんな人生を送っているのが正解とは言えません。だって誰もが違う思考をし、違う体験をしているのですから一般化することはできません。成功法則は万人にはありませんし、ロールモデルはただのモデルであり、同じにはなりません。一般化するのは、ある種操作でしかないと思っています。




多様な時代だからこそ自分は自分、という軸が必要だと思っています。ただし、良い悪いはありません。どんな生き方でも、どんな苦しくても人生はどれもが対等で、素晴らしいのです。





機能不全家庭で虐待出身の私でも、親になれたこと、親一人、子一人のたった二人の家族でも、、幸せに暮らせていることが奇跡です。13年前には想像できなかったことです。ですから、人生は良い方向にしか向かっていません。






今日も読んでいただきありがとうございました😊