毎日新聞オンラインニユースの3月28日記事より抜粋

 「東日本大震災の被災地にボランティアに行きたい」と思いながら、「足手まといかも」「未経験者でもいいの?」と踏み出せない人、実は多いのでは。迎える春、震災から1年が過ぎた今だからこそ、自分にできる支援を探してみたい。週末のボランティアツアーに参加した。【小国綾子】


 ◇残る「がれき」という名の服やノート/「観光」で参加することへの迷い/「忘れないで」と訴える現地の人々


 宮城県南三陸町の海岸から1キロ近く離れた場所に、屋上まで津波をかぶった3階建ての県営住宅はあった。JTBの「ボランティアサポートプラン」に参加した私たち43人が到着した時、すでに何十人ものボランティアが冷蔵庫やソファ、曲がったカーテンレールを部屋から運び出していた。これらを木材や金属などに分別するのが役目だ。


 雪解けでぬかるんだ泥の水たまりを長靴で行く。男性たちが大きな木材を運ぶ傍らで、私は古いビニール袋を抱え上げた。重い! 未開封のトイレットペーパー18ロールがぬれている。震災から1年たってなお、あの日の水と泥が腕の中にあるなんて。


 「がれきの片付け、まだまだ終わってないじゃん」。誰かがうめいた。「がれき」という名の子供服、算数ノート、お習字セット……。ボランティアセンター(ボラセン)のスタッフに相談しつつ「ゴミ」の山に捨てていく。皆口数が減り、重い沈黙が漂う。


 七五三の物らしい金糸入りの女児用草履の片方を見つけた。ボラセンのスタッフに「これも捨てますか」と尋ねたら、「きりがないんだ。水をかぶった物は、写真や位牌(いはい)すら『受け取りたくない』と言う人もいるんだよね」。目の前の「がれき」の山は、人の無念の山なのだと思った。


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 このツアーを選んだのは、バス車中泊ではなく新幹線だったから。1泊2日で、新幹線とバスを乗り継ぎ、昼ごろに南三陸町に入り、初日は2時間活動。ホテルに泊まり、2日目も5時間ほど活動する。復興商店街で買い物をする時間もある。腰痛持ちの中年記者には一番ハードルが低く見えた。ちなみに費用は3万4800円。メンバーは20~60代の男性18人、女性25人。最高齢の69歳男性は「今までの人生、自分のためだけに働いてきた。何か恩返しをしたくて。今回で3度目」。


 リピーターもいる中、初参加の多くの人が口にしたのは「今までずっと行きたい、行かなきゃ、と思ってきた」という言葉。千葉県の特別支援学校教諭、木村千寿子さん(37)も「うまく説明できないけど、ようやく心の整理がついて参加できました」。


 実際、JTBによると、震災1年前後から、むしろツアーへの問い合わせが増えている。「寄付以外にできることはないの?」ともんもんとしていた小学校非常勤講師の鳥居英夫さん(63)と光代さん(65)のご夫婦が思い切って新幹線ツアーに初参加したのも、昨年暮れのこと。「あれが私たちの第一歩。それが、二歩目、三歩目へつながりました」。今度で3度目の参加という。


 調査会社リサーチ・アンド・ディベロプメントの調査(昨年10月、首都圏の18~74歳3000人対象)によると、震災で何らかのボランティア活動をしたのは3・3%、現地に出向いた人は1・2%。数の上では100人に1人だけれど、残り99人の中にも気持ちのある人は多いのでは。


 泥と汗にまみれて2時間、「がれき」の山と格闘したら、県営住宅の周辺は随分片付いた。「本日の作業、終了!」。ボラセンの方の声が響く。「一人じゃ何もできないのに。人の数ってすごい大事」。誰かがつぶやいた。この日、同町のボラセンには約460人が登録し、活動した。


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 宿泊先の「ホテル観洋」で地元女性から被災体験をうかがった。彼女は話をこう結んだ。「南三陸のことを忘れないで。いつか復興したら家族と観光に来てください」


 志津川湾を望むこのホテル、震災後の数カ月間、2次避難所として600人を受け入れた。おかみの阿部憲子さん(49)は「震災1年を過ぎた途端、南三陸が忘れ去られるのではと多くの人が怖がっている。この地に来て好きになり、周囲に伝えてくれることが何よりの支援」という。


 自分の迷いをぶつけてみた。「観光も立派な支援」「自分の目で見ることが大事」という人がいる一方、「ボランティア受け入れが被災地を疲弊させる」「観光で潤うのは一部だけ」と批判も聞く。だから迷っていたんです。阿部さんは「そっとしておいて、という方は今もいる。だからこそ動ける人から動きましょうよ。悲しみに暮れる人が顔を上げた時、何も残っていない町にしたくないんです」。


 出発前、福島県いわき市で「心のケア」に当たってきた大阪府のさわ病院精神科、緑川大介医師にもらった助言を思い出した。「『何でもやります!』というボランティアの一言がつらかった、と話す人もいますから、使命感やエネルギーを相手に押し付けず寄り添いつながることを大事にしてほしい。週末だけでも観光でもいい。細く長く支援をつなげてほしい」。緑川医師自身は「私たちが被災したら皆さんがすぐに助けに来てくださいね」と声を掛け、相手の被災者意識を強めないよう心掛けているという。


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 2日目の作業は、志津川漁港での漁業復興支援。一度は全滅した養殖いかだを買い直し、ようやく2月に出荷にこぎ着けた。ワカメの選別や箱詰めを一緒にしながら、漁師さんたちは被災の体験や再出荷の喜びを話してくれた。初日とは一転、皆の笑みもこぼれる。東京の男子大学生(22)は「海に一番近い所に生きる人たちの『オカに上がらず漁師を続ける』という覚悟が一番、心に残った」。


 5時間の作業で1トンを超えるワカメの箱詰めを終えていた。別れ際、漁師さんたちがメカブやワカメをお土産にくれた。「うまいぞ。食べている間ずっと南三陸のことを考えて」。そんな一言が胸に染みる。参加前は今後もいろいろな被災地を回ろうと考えていた木村さんは「今日の出会いで南三陸に愛着がわきました。次もここに来るかも」。


 「役に立てるのか」という迷いや不安を抱え、ここに来た私たち。出会ったのは「被災者」という一言で束ねられない、束ねたくない一人一人の思いと暮らしだった。この目で見てこの手に触れたものを信じ、つながっていこう。


 「また、来ます!」。言葉が自然に口を突いて出た。