朝日新聞アピタルニユースの3月24日記事より抜粋

 脳梗塞(こうそく)の後遺症で左半身が不自由な岩手県釜石市の佐々ミヨさん(89)と、娘の美奈子さん(66)は、自宅を津波で流された。県立釜石病院に避難していたが、3日後に内陸の花巻市の病院に入院することになった。


 ミヨさんは10日間ほど排便した様子がなく、おなかが張って痛いはずなのに何も訴えなかった。若い頃は船員だった夫の留守を守り、田畑を耕し、山菜を売って4人の子を育てた。我慢強さはその頃から変わらない。


 ただ美奈子さんにだけは、たまに「水が飲みたい」と言った。美奈子さんは市内のホテルから毎日、バスで通った。帰ろうとすると「まだいて」と引き留められ、朝から夕方までそばにいた。


 1カ月ほどたつと、避難した時に出来た足の傷も治った。医師は「そろそろどうですか」と退院を促した。美奈子さんが避難していたホテルは、大部屋での共同生活だった。ミヨさんは排泄(はいせつ)の手伝いも必要で、部屋を汚したら迷惑がかかる。感染症も心配だ。「帰るうちがないんです」と訴えるしかなかった。


 避難所で知り合った人が、介護に忙しい美奈子さんに代わり、仮設住宅を申し込んでくれた。体が不自由なミヨさんは優先的に入居が認められ、5月11日に釜石に戻った。仮設住宅は町中にあり、スーパーにも歩いて行ける。運転免許のない美奈子さんには、ありがたかった。


 だが生活は味気なくなった。


 元の家は、近所に親戚が多かったが、今は知らない人ばかり。来客もなくなった。庭では吾亦紅(われもこう)や除虫菊を育て、カマキリも飼っていたが、仮設住宅の前には砂利が広がるだけだ。


 しばらくすると、ミヨさんの記憶が混乱するようになった。5年前に亡くした夫を「お父さんが最近帰ってこない」と言うようになった。時々「うちさ、帰っぺし」ともつぶやいた。


 何もかもが変わった中で、訪問診療や入浴サービスは、震災前と同じように受けることが出来た。6月、釜石ファミリークリニック院長の寺田尚弘(てらだ・なおひろ)さん(49)が、久しぶりに訪問診療に訪れた。真新しい家電以外はがらんとして、部屋は寂しい印象。でも、出迎えた美奈子さんの声は明るかった。寺田さんは、少しホッとした。