「俳優」で「映画・舞台の監督」で「演劇スクールの校長」というマルチな才能を発揮し 人望も厚かった塩屋俊さんが突然命を落としたのは2年前の6月5日でした。
当日上演予定だった舞台「HIKOBAE2013」の最終稽古中に倒れ帰らぬ人となりました
まだ56歳でした。
何故?、このタイミングで塩屋さんを忍ぶかと言うと・・・
先日、私の相棒(女優Sさん)とライン
でお話する事があった時、
現在、彼女がお芝居をご一緒させていただいている俳優さんの中に3人「アクターズクリニック」(塩屋さんの作った演劇学校)出身の生徒さん達がいらっしゃいますと聞いたからです
まだ、塩屋とは不思議な縁でつながっているのだなぁ・・・・と思いました
それが理由です
彼の作った演劇スクール「アクターズクリニック」は東京・大阪・大分にあり
生徒には「深田恭子、向井理、相武紗季、長谷川京子さん、木村佳乃、桐谷健太、鈴木亮平
EXILE・MAKIDAI、他」がいて、僕とも親しい小堺一機さん(36年のお付き合い)もいました。
(急に思い出した!!前田有貴ちゃん!!元気かぁーお世話になりました)
塩屋と初めて会ったのは2011年の春でした。
僕の悪友で丸茂日穂(元GAGA社長)の紹介でした。
私の相棒もよく知ってます
私が1954年1月、塩屋が1956年8月、丸茂が1956年9月生まれで歳も近い事もあり
3人とも慶應大学出身で、ギャンブルのような映画業界にいたと言うこともあり、3人でよく食べよく酒を飲む仲になりました
仕事では
〇彼が監督した映画「ゼロからの風」のDVD化
〇3人で画策した映画「種まく旅人~実りの茶~」
〇鉄道模型の「原信太郎」さんのDVD ほか
3人で「湯布院映画祭」の為に大分の湯布院まで旅行(遊び)にも行きました
彼は本当に、多方面で才能があり、「英語はベラベラ」「会社経営もする」「映画・舞台の
監督をする」「演劇の教師からスクール経営」と・・・今から思えば「忙し過ぎ」でしたね!
(その上、家庭もささえ、親としての仕事もありましたから・・・)
僕が初めて「永田守 製作」として映画「しあわせカモン」を世に出すんだ!と言ったら
忙しいのにアメリカから帰ってきて僕にお祝いの食事を二人だけでしてくれた想い出があります
物凄く優しく、友達想いで全ての方向に同じだけの強いベクトルを持つ熱い奴でした
付き合い始めた頃彼は良く僕にこう言ってました
「永田さんは、ズケズケ僕に思った事をストレートに言うけど・・・・全部正解だよね」(笑)
歳は3つ下なのに、僕よりずっと大人でした。
2011年の3月11日に起きた悲劇「東日本大震災」のすぐあとから、自ら福島県の相馬に入り、その悲惨な現実を届けなければと彼は考えていました
最後の舞台になった「HIKOBAE」の企画書も何冊も見せられました
ものすごい情熱でした。
本当におしい人物を亡くしました
食事も僕の倍くらい食べて元気だったのに・・・・(悲しい)
しかし、彼の遺作「HIKOBAE」(鈴木亮平出演)を2013年4月に天王洲の銀河劇場で観たとき出演なさっていた俳優さんと私の運命の相棒が巡り会っているのですから
「飲み仲間の縁」は繋がっているのですね
塩屋!!どうか安らかに!!
やっぱり僕のほうが正解だったね
当日上演予定だった舞台「HIKOBAE2013」の最終稽古中に倒れ帰らぬ人となりました
まだ56歳でした。
何故?、このタイミングで塩屋さんを忍ぶかと言うと・・・
先日、私の相棒(女優Sさん)とライン
でお話する事があった時、
現在、彼女がお芝居をご一緒させていただいている俳優さんの中に3人「アクターズクリニック」(塩屋さんの作った演劇学校)出身の生徒さん達がいらっしゃいますと聞いたからです
まだ、塩屋とは不思議な縁でつながっているのだなぁ・・・・と思いました
それが理由です
彼の作った演劇スクール「アクターズクリニック」は東京・大阪・大分にあり
生徒には「深田恭子、向井理、相武紗季、長谷川京子さん、木村佳乃、桐谷健太、鈴木亮平
EXILE・MAKIDAI、他」がいて、僕とも親しい小堺一機さん(36年のお付き合い)もいました。
(急に思い出した!!前田有貴ちゃん!!元気かぁーお世話になりました)
塩屋と初めて会ったのは2011年の春でした。
僕の悪友で丸茂日穂(元GAGA社長)の紹介でした。
私の相棒もよく知ってます
私が1954年1月、塩屋が1956年8月、丸茂が1956年9月生まれで歳も近い事もあり
3人とも慶應大学出身で、ギャンブルのような映画業界にいたと言うこともあり、3人でよく食べよく酒を飲む仲になりました
仕事では
〇彼が監督した映画「ゼロからの風」のDVD化
〇3人で画策した映画「種まく旅人~実りの茶~」
〇鉄道模型の「原信太郎」さんのDVD ほか
3人で「湯布院映画祭」の為に大分の湯布院まで旅行(遊び)にも行きました
彼は本当に、多方面で才能があり、「英語はベラベラ」「会社経営もする」「映画・舞台の
監督をする」「演劇の教師からスクール経営」と・・・今から思えば「忙し過ぎ」でしたね!
(その上、家庭もささえ、親としての仕事もありましたから・・・)
僕が初めて「永田守 製作」として映画「しあわせカモン」を世に出すんだ!と言ったら
忙しいのにアメリカから帰ってきて僕にお祝いの食事を二人だけでしてくれた想い出があります
物凄く優しく、友達想いで全ての方向に同じだけの強いベクトルを持つ熱い奴でした
付き合い始めた頃彼は良く僕にこう言ってました
「永田さんは、ズケズケ僕に思った事をストレートに言うけど・・・・全部正解だよね」(笑)
歳は3つ下なのに、僕よりずっと大人でした。
2011年の3月11日に起きた悲劇「東日本大震災」のすぐあとから、自ら福島県の相馬に入り、その悲惨な現実を届けなければと彼は考えていました
最後の舞台になった「HIKOBAE」の企画書も何冊も見せられました
ものすごい情熱でした。
本当におしい人物を亡くしました
食事も僕の倍くらい食べて元気だったのに・・・・(悲しい)
しかし、彼の遺作「HIKOBAE」(鈴木亮平出演)を2013年4月に天王洲の銀河劇場で観たとき出演なさっていた俳優さんと私の運命の相棒が巡り会っているのですから
「飲み仲間の縁」は繋がっているのですね
塩屋!!どうか安らかに!!
やっぱり僕のほうが正解だったね