~オレらはだれかの夢の中の登場人物?~

でお届けします。


まぁ、テーマだけみてみると、その辺の不二子不二夫の漫画にありそうな感じですが、まぁ聞いてやってください。

とりあえず、今回のお話に大きくかかわってくる事が

明晰夢(めいせきむ)

という夢のことです。

かるく明晰夢について説明すると、

明晰夢とは自分で夢であると自覚しながら見ている夢

です。


明晰夢内での自分に干渉する事柄は実際に現実で感じてるかのような気分になれるみたいです。

例えで言うと、鉄砲を撃ったらその反動を感じる。みたいな。

さらに言うと、明晰夢をみるために多少の訓練さえこなせば思いのままの夢も見ることができる。


この思いのままの夢というのが今回のポイントそして今回のテーマ。


思いのままの夢を見れるということは、自分達は誰かの夢の中の登場人物であることはありえまいか?


この疑問が頭に浮かび始めてからいろんな仮説がムワムワと湧いてきました。

まず<仮説1>

自分が見る夢に出てくる登場人物、彼らは夢の中の人物だと起きたらわかる。

しかし夢の中での彼らの行動を実際にイジることはできただろうか?

オレは一回もできたことはない。なんでも出来そうな夢の中でさえ相手を思い通り動かすことなんて出来ない。だいっキライな異性に逆レイプてきな事をされる夢をみるくらいだし。

そして、自分の夢のなかで、自分を客観的に見たことはあるか?と考えてみても、自分の経験上それもない。

ほんとに夢で行動している自分はリアルの自分なのか?

リアルと違う自分であるならば、その夢の中での自分はその夢の中で思ったように動いている。

つまり、夢の中の登場人物には自我がある?という仮説。


で<仮説2>

死んだらどうなる?

言い換えると、生き物としての命を失ったらどうなる?

を考えてみる。

実際そんな死後の世界なんてわかる人いるわけがない。それがわかるとか言うのは悪徳占いのペテン師とかでしょう。

ここで夢の話に戻ると、

オレははっきりいってよく夢の中で死にますw

死にそうになるってのが正しいかな?実際死にそうになったら飛び起きるし。つまり夢の中でも死んだことがない。

で、夢の中で死んだとしよう。でもリアルでは目が覚めるということでその夢の中の死後を経験しているわけだ。

夢の中の自分は死んだけど、リアルでまた違う自分の人生の続きをする。

つまり、死ぬ=目が覚める

という仮説。


そして仮説2からつながるように

<仮説3>

だんだん話がぶっとびはじめました。

みんなはいつ物心がついた?いつから記憶がある?

およそ一般人は早くて2歳、平均的には3~5歳くらいだと思います。

じゃ、物心がつくまではなんで記憶がない?

中には、母親の子宮の中の記憶もあるっていう人とかもいる事実により、脳の発達の差というわけでもなさそうだ。

オレは、夢をみてるんじゃないかと思う。

起きてるときは実は夢遊病のようふらふらとにただ栄養補給をするための行動なんじゃないかと。

で、物心がついたその瞬間はつまり夢から覚めたんじゃないかという仮説。


<仮説2>からつなげると、

今、この現実に生きてる自分の人生が終わる=死を迎える
↓
<仮説2>により、死後の世界はわからない=夢から覚める
↓
で<仮説3>、物心がつく。それ以前の記憶はない=夢の内容を覚えてない。
↓
以後仮説2と3のループ


という風に考えてみた。

オレが勝手に仮説を立てた事項は現在の科学では証明できないはず。

そうならば、オレの仮説もあながち可能性は0ではないのでは?


ここで、ちょっと話がとんで(内容もさらにぶっとびはじめます)

<仮説4>

神様の話になります。


神様はまぁ、どこの宗教かは別に無宗派の自分にとってはべつにキリストだろうが、だれだろうがいいんだけど、

共通するところは全知全能である、という事ではないか。

この全知全能と明晰夢

共通点があるように自分は思う。

自分の思い通りの夢を見ることが明晰夢であるならば

その明晰夢の中では自分はいわゆる「神」にすらなれるのではないのだろうか?

そしてその夢の中のキャラクターはその「神」=自分の思うがままに進む。

これはつまりオレらの世界でいう「運命」なのでは?

神のみぞ知る運命。

これが<仮説4>の大体の内容です。



ここまでで自分の中では大体筋がつながりました。

ここで今回のテーマを究極的に導き出しました。

「自分達は誰かの夢の中の登場人物である」



ここで一応証明されている定義

<定義>

人間は基本的に夢はほぼ必ず見ている。

ただ、覚えてるか否かの違いだけ。


この定義を利用し、今回のテーマを前提にあたらしく仮説を立てます

<仮説5>

夢の中で、今まで出会ったことのない人物がでた事はないか?

自分はあります。しょっちゅうでます。なぜか大抵異性w


これは<定義>と<仮説3>から言うとと、「前世」の記憶なんじゃないか?


ほぼ100%夢は見ている。

覚えているかどうかの違い。


そうなると、前世=現世=どこかの誰かの覚えてない夢

なんじゃないのか?という仮説です。



大体思いついた疑問はこの辺で終わります。こっから先は特に連鎖的には思いつきませんでした。


夢を見ている時間なんて短いから人の一生分を見るなんて不可能だ!

とか思うけど、

明晰夢なんてものが存在するということは<仮説4>から人が神になることですら可能になるとでました。

なんでもできる、つまり時間軸をずらすことすら可能なのでは?

わかりにくいから、言い換えると、

実際は8時間くらいしか寝てない、でもその夢の中では8時間で一生が終わるようなスピードで進めているということ。

さらにわかりやすく言うと、

普通の人間の一生を80年と考えたとき、

実際今この世界での10年は夢をみている人にとっての1時間かもしれないということ。

ここでこれ書きながらで思いついた<仮説6>

ここでいう「人」は人間でない可能性もあり。他の生物が見ている夢である可能性もある。

<仮説3>から死んだら物心がつく=つまり、生まれ変わる。

輪廻転生って言葉がある。必ずしも人間に生まれ変わらないって事だったはず。

それはつまり、他の生き物が見た夢だからでは?

こうなると輪廻転生のシステムも合点がつく。

仮説7

科学の進歩も夢から来ているのでは?

仮説2と3から言うと

夢の記憶は現世に引き継ぎます。

つまり前世で学者などだった場合、覚えてる覚えてないは別として、どっかしらのその知識が隠れてるはずです。

それが夢をふと思い出すかのように思い出せたときにそれを本能的に応用し、新たなる発明があるんじゃないか?と。

また、歴史は繰り返すというのも夢からきてるんではないかと同様にいえます。

つまり

ある自分がいる
↓
それは誰かの夢の登場人物
↓
そしてその誰かも誰かかの夢の中の登場人物
↓
そして・・・以下略

このループをさらに詳しくいうと

誰かの夢
↓
誰かの夢の夢
↓
今現在の自分がいる←オレらがいるのがココ。
↓
それは誰かの夢の登場人物
↓
そしてその誰かも誰かかの夢の中の登場人物
↓
そして・・・以下略


というループであるということです。

つまり、もしかしたらオレらは気づいてないうちに凄まじく大きな何かの神的存在にはすでになってるのかもしれませんね。

みんなに公開する日記ってほんとに難しい。


オレの場合、なんかについて批評したい時があった場合そのなにかを誰かが好きである可能性を先に考えてしまう。

で、もし該当者がいるようなら控えめで表現してしまう。

該当者がいないようならばボロクソいってしまうけど。


で、違うケースとして、

「該当者がいない」と思ってたけど、実は自分の知らないだけで、実はいたかもしれない。

その人がその日記やら発言やらを聞いたとき、とりあえずまともに受け入れることはできないでしょう。少なくともオレはそうです。


じゃその気に入らない部分を日記や発言の主にぶつければいい、と思うかもしれないけれどやっぱり日記を見てる人は基本的には仲間です。

正解のない世の中、なにについても批評はでます。一般に公開してしまうと参考になる意見、まったくならない意見がマイミク(仲間)内に比べ全然数多く飛び交うでしょう。

そうなるといちいち弁解も面倒だし、賛同してくれる人と一緒に賛同しない人を否定してしまうこともある。

賛同する人がマジョリティならば、やはり少なくとも賛同しない人はマイノリティと感じ、少なからずのがっかり感があるでしょう。

そのマイノリティである人がタフな人ならば、そんなの関係ねぇっ!!って完全に批評をシャットアウトすることもできますが、オレはそんなのはキライです。聞く耳を持たない人の世界には立ち入ることはものすごく面倒なことなので。

矛盾するけども、シャットアウトする人でも、その批評内のみで済ますならば、全然いいと思います。

気に入らないのはシャットアウト後、一度でも自分に不快な思いをさせた相手から発する意見、その人の周りの人などすべてをシャットアウトする人です。

ただひとつの趣味の違いが1つあるだけでまるでその人の趣味は全て自分とは合わないと判断するのはどうか?もっと広く相手のことを観察し、吟味しそして合う合わないを決めるなら妥当だとおもう。


話がそれたんで戻すと、批評されたことに対して自分の正直な意見をいえばいい、っていいましたが

実際みんなはいえますか?自分の正直なキモチ。

オレははっきり言っていえません。


なぜならたった一言でその仲間との摩擦ができる可能性があるからです。


顔を合わせていないインターネット上で相手も全く知らん人なら別です。オレは攻撃あるのみで本音でどしどしぶつかります。

しかし、日記の場合、ましてやマイミク公開とかだとヴァーチャルでの気まずさは基本的にそのままリアルな世界にも引き継ぐと思うんです。


そうなるとヤじゃないですか。


だから基本的にレビューはまだしも、人の意見や(特に)趣味などに対する批判を日記などで全体や制限公開でもしてる人ははっきり言ってオレは卑怯だとおもいます。言いたいことを言わせてもらえない。

実際顔を合わして何かについて批評するのは至って結構だと思います。
いろいろな批評により新しく何かが生まれるというメリットの方が全然一瞬の不快感というデメリットよりいいんで。


要するに言いたいことはインターネット上でなにかについて批評するならば、MixiなどのSNSサイトではなく、個人のブログでやってくれってことです。

個人のブログならばその批評をみて、賛同する人がいるならば見続けるだろうし、反対する人も友人かどうかもわからないのではっきり本音で叩けるでしょう。

はっきり言って友人のオンライン上の批評は迷惑です。その友人の性格を疑うようになってしまいます。

そしてやめて欲しいのが、どこかで自分の意見が否定されたとき、その意見に賛同を仰ぐような日記や意見。

そんな意見でても友人はどっかで傷つき、こっちを頼ってるわけだ。その傷ついた理由が明らか友人が間違ってもはっきりとお前が間違ってる!というのは至難の業だと思います。これも足下を見てしゃべってる感じがしていやです。


一番の理想が、本音でお前が間違っている!とはっきり言える、そして言っただけで不仲にならないような友達を持つことですね。


これが親友ってやつなんだろうな。

だから批評をする時は敵を増やすこと覚悟でやってほしいです。

オレもよくマイミクの日記のコメントとかに批評的な意見をコメントするときがあります。オレは本音で敵に回す事覚悟で語ってるだけです。実際オレはマジで批評する友人のことを大して大切に思ってないのかもしれないなー。自分の気に入ってる人に本音でぶつかって避けられたら落ち込むもん。ということは本音で言える人は落ち込まないってことか…?

この世の中に「嘘」って重要なんだなって思った。
映画「Liar Liar」はよくできた話だなそう考えると。


じゃ、オレがそういう人間だとわかって付き合い続けてくれる人達、これからもよろしくです。


わけわかんない内容を長々とサーセン!w

~追記~

この日記でいうやめて欲しい批評っていうのは

「ネガティブ」な批評です。

ポジティブな話は誰がいつ聞いたってよほどひねくれてない限りいいものだと思います。

(極端な)例

ネガティブ: ○○(何でもいいです。)のどこがいいのかわからん。なんでみんなはそんなに好きなの?こっちの方がいいじゃん。系の何かを否定し、何かを持ち上げる批評。

ポジティブ: ○○ってマジかわいいと思う!!△△も良いけど!!とか比べてはいるが、Alternativeを否定してない批評。
みんなは自分がよければそれでいい?

それとも自分を犠牲にして他人を良くする?



自分がよければそれでいい

って考え方は果たして自己中心的と考えてもいいのだろうか…?


最近の世の中では自分を犠牲にして他人を良くするということが当たり前なことだと人々は認識していると思う。


そういう考え方こそ自己中心的ではないのか?

必ず相手がいたわってくれると考えている。


オレが今回いいたいのは別に「助け合い」や「893」ほどの極端な意見じゃないんだよね。

オレは自分がよければなんでもいい方だけど、流石に目の前で誰かが大けがして死にそうだったら見捨てたりはしない。ちゃんと病院に運ぶか救急車は呼ぶだろう。


だから例で考えてみる。

<例その1>
これは実家(ヨコハマ)の方の友達とちょっと話したことだけど

自分は徒歩で青信号の横断歩道を渡っている
自分と同じ進行方向に向かってる車が右折しようとしている
でも自分が歩いてるから車が右折できない。

というケースを考えて欲しい。

ここから先、オレと実家の友達の意見が分かれたんだ。

ドライバーとしては(実家の友達の考え方)「後ろもつっかえるし、自分も気まずいから呑気にわたるんじゃなく、もっとそそくさと申し訳なさそうに渡れよ。お前がささっと渡れば万事おkなんだよ。」

と思うらしい。

オレが思うは「別に青信号をどう歩いたってオレの勝手じゃないか?」


という考え。


勘違いしないで欲しいのは、この日記を相手の言い分を否定するようなものにしようとは一切してないということ。そのへんよろしく。


お互い(ドライバーも歩行者も)、それぞれの事情なんてしったことないでしょ?


ドライバーはうんこがもれそうでたまんないから早く家に帰ってトイレに行きたいかもしれない。だから早く渡れよと思うかもしれない。

歩行者もうんこもれそうで、早く歩くと生まれてしまうからのこのこ歩いているかもしれない。かつ歩行者はなにも悪いことはしていない。歩行者優先のこの国の中で青信号を渡っているんだ。


結局モラルという言葉に頼らなくてはいけなくなる。

そしてこの例のモラル的正解は歩行者が早く渡ることであるとは思う。


<例2>

日本の高速道路を走ってると考えます。

80KMが制限速度だとします。

3車線あります。

一番右車線に100kmで走ってる車がいます。

その後ろから120kmで走ってきた車がいるとします。

というケースをかんがえてみる。

後ろから来た車は一気にどけと言わんばかりに車間距離をつめてくるでしょう。

前の車はタダでさえ100kmだしているんだ。これ以上は流石に法は破れない。でもこっちからの景観が好きなんだ。


という状況になっているとしたら恐らくコレの正解もモラル的に100kmで走っている人がどくということでしょう。


<例3>

これはちょっとややこやしい例になると思うけど
電車の中。

ある程度座席が埋まっている。立っている人もちらほら。

なケースを考える。


ある仲間同士が向かいあわせに座る。会話がしたいからしょうがなく少し大声で会話をする仲間同士。

一方、優先席付近ではない別なところで彼ら並の声で携帯でしゃべってる明らか頭悪そうなギャル。

もう一方、優先席付近でもメールなどで忙しい一般大衆。


このようなケースの時、モラル的な正解はなんだろう?

ギャルに携帯での通話は遠慮しろというか。
友達同士で大声で会話してる人達を付近の迷惑だと注意するか。
優先席付近では携帯電源落とせというか。


一般的にでてくるのは上2つだとおもう。
じゃなんで3つめはなかなか出てこない?


答えは簡単、

自分に迷惑がかかってこないからだ。



結局人間てのは奇麗事を並べるだけ並べるが、それは全て

「自分のタメ」

につながるからではないか。


かつ、注意する人なんかいるのか?注意をするような人が「こういう人がいて~周りの迷惑考えろ」ていう事をいうのは別にかまわないが

自分で注意できないのに明らか迷惑そうな顔などで見てきたりする人はなんだ?卑怯じゃないか?

大抵他人に迷惑をかけてる人はそのことに気づいていない。誰かがちゃんと言ってあげないとダメだ。


携帯でしゃべってるバカギャルも迷惑かけてるとは思わないだろう。自分の声がまさかそこまで大きいとも思わないだろう。

対面同士でしゃべってる人もまさか自分達が迷惑をかけているとは思わないだろう。


それをあえて破る人間は本当のクズだ。

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自分を犠牲にして他を助ける目的はなんだ?

結局は自分のタメなんじゃないのか?

目の前で誰か大けがしたらそれは助けるだろう。

もし見捨てたら世間が何を言うかわからない、自分も良心を痛めつけられる。そんなこといやだろう?だから助ける。



モラルってなんだ?
常識的に考えて、ってなんだ?


どっかのだれかが勝手に作った理想論をオレにぶつけないでくれ。

なぜ自分の幸せを犠牲にしないといけないんだ?


弱者を助けるのも「自分が誰かを助けたor助けている」という事実を周知して欲しいからではないのか?その人達を助けたことにより犠牲にされた自分の時間は誰が保障してくれるんだ?
自分に得がないことをあえてする理由がわからない!



オレって
すごい悲しい人間なんだろうな。


っていうこの文も結局は…

んにゃ、疑心暗鬼バンザイ。