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皆様ご無沙汰しておりました。
1年以上まともな記事を書いていなかったんですね
また少しずつですが書いていきますので宜しくです。
まずはこちらの続きから・・・・
復讐の瞬間(とき)1―――伍子胥1―――
楚(そ)の平王(へいおう)と佞臣である費無極(ひむきょく)により父兄を殺された伍子胥は復讐のため楚を出奔します。
出奔経路は諸説あるのですが、たぶん先に亡命をした太子健(たいしけん)の後を追い、宋(そう)から鄭(てい)と渡り歩いたというのが妥当なのではないかと思われます。
太子健も父親である平王に新婦を奪われた上に、謀反の濡れ衣を着せられたことにより亡命を余儀なくされており、その太子健とともに復讐を行い、正当な跡継ぎである太子健を楚王に立てる、という遠大な計画を伍子胥は考えていたのではないかと思うからです。
ところが当時の鄭にはそのような国力はなく、結局太子健は殺されてしまい、伍子胥は楚の東隣にある呉(ご)に落ち延びます。
呉はその当時急速に力をつけてきた国で、楚にいた伍子胥はそのことを知っており、「この国なら・・・」、と目星をつけたのではないでしょうか。
さて、ここで伍子胥のことをちょっと離れて呉という国についてちょっとお話ししてみたいと思います。
呉は酒池肉林で有名な商(しょう;殷とも)の紂王(ちゅうおう;受王とも)を滅ぼした周(しゅう)が西方の豪族に過ぎなかった頃、君主であった古公亶父(ここうたんぽ)の子である太伯(たいはく)と虞仲(ぐちゅう)がたてた国である、という伝説を持っています。
ちなみに、商を滅ぼしたのは周の文王(ぶんおう)・武王(ぶおう)ですが(正確には武王の代で商を滅ぼしている)、文王の父親を季歴(きれき)といい、太伯と虞仲は季歴の兄になります。
蛇足になりますが、この当時の男子は名前によって何番目の子かが大体わかります。
長男の場合は伯か孟、二男は仲、三男は叔、末弟は季という字がよく当てられます(四男五男は?という突っ込みはしないでくださいね(*^▽^*))。
現代の日本では仲父や季父は死語になっていますが、伯父(伯母)や叔父(叔母)は今でも使われていますよね。
その名残なのではないかと思います。
ここで、名前からもわかるように太伯(長子)、虞仲(次子)を差し置いて季歴(末子)が跡継ぎになったのは何故?と疑問をお持ちの方もいると思います。
これは古公亶父の君主時代、季歴に息子の昌(しょう;のちの文王)が生まれた際に、この子が聖人になるというめでたい瑞がありました。
そのため、太伯と虞仲は「父は季歴に跡を継がせ、昌の時代で繁栄するのをお望みなのだ」と語り合い、周を離れてはるばる呉の地に行き定住した、といわれています。
そしてまたまた蛇足ですが、呉の始祖という伝説を持つ太伯は日本にもゆかりがあります。
最近BSで新作が放映されていますが、TVドラマ等でみなさんご存知の水戸黄門(徳川光圀)ですが、彼は俳句や書簡などを書く際に梅里(ばいり)という号を使用しました(実際にTVドラマでも使用していた記憶があります)。
その梅里というのは太伯が落ち着いたところであり、太伯を尊崇していた黄門様はその地名を自分の号として使ったんですね。
有名な武田信玄の風林火山をはじめ、当ブログでも紹介した織田信長の岐阜という地名の命名(三年鳴かず飛ばす)など、当時の大名級の人物が中国史に精通していたことをうかがわせるお話ですね。
さて、呉という国の始祖が太伯であるかどうかの真偽がさておき、この国に一人の英主が現れます。寿夢(じゅぼう)です。
寿夢の元年は紀元前585年であり伍子胥の活躍する時代に先駆けること80年ほど前のことです。
寿夢もちょこっとだけですが、当ブログに登場しています(夏姫外伝)。
その寿夢には子が多くいたようですが、末弟の季札(きさつ)が最も賢明でした(ちなみに季札は当時の中華の最高の知識人ともいわれています)。
そのため、寿夢は季札に跡を継がせようとするのですが、季札は拒み続けます。
やむなく寿夢は長子である諸樊(しょはん)を立てて亡くなります。
諸樊は服喪が終わると、父である寿夢の遺志を尊重して、季札に王位を譲ろうとするのですが、季札は「君は正しい嗣子です。私が国を預かるのは節義が許しません」と頑なに辞退します。
諸樊は仕方なく王位につき、亡くなる際に下の弟にこのように命令を残します。
「わが子ではなくそなたに位を伝える。君主になったら自分の子には位を継がせず、兄弟の次序の通りに位を伝えて、最後には季札が国主になるようにせよ」
・
・
・
やがて時はめぐり・・・・・
順番は季札のところまで回ってくるのですが、ここでも季札は固辞します。
困った呉の大臣たちは、亡くなったばかりの呉王句餘(こうよ)の息子である僚(りょう)を王に立てます。
伍子胥が呉に来たのは、この呉王僚の時代になります。
*呉の王室の長幼や親子関係については諸説あります。
・
・
・
呉についた伍子胥は早速呉王僚に謁見し楚を征伐するよう説くのですが、それを聞いていた公子光(こう)に「そのものは父兄を楚に殺されて、その恨みを晴らそうとしているだけです。お許しになってはいけません。」と献策を妨げられます。
この公子光という人物は諸樊の嫡子であり、「季札が王位を継がないのであれば自分こそが正当な後嗣である」、と思っていました。
伍子胥の器量を知っていた公子光は、伍子胥が呉王僚の謀臣となるのを妨げたんですね。
慧敏な伍子胥も「公子光には他の志があるようだ」と察し、鱄設諸(せんせつしょ)という勇士を公子光に推薦し、自らは野に下り耕作をしながら時期を待ちます。
そして、7年後・・・・・
公子光は鱄設諸を使って呉王僚を暗殺し、即位します。
この時、季札は中華諸国を外遊中だったのですが、帰国すると「社稷を奉じて、国家を傾けるようなことをしなければ、新君は私の君です。死者を哀しみ、生者に仕えて、天命を待つことにしよう。立ったものに従うのが、先人の道である。」と言い、公子光を呉王とすることを認め、復命後呉王僚の墓前で哭泣したそうです。
季札は呉の良識の象徴でもあり、季札に認められたということは呉の国民にも認められたことにもなります。
公子光は安心して季札を以前通りに延陵(えんりょう)に封じます。
さて、即位した公子光ですが、彼こそ春秋五覇(しゅんじゅうごは)の一人に挙げられることもある呉王闔閭(こうりょ)です。
闔閭は大志を持っており、早速伍子胥を召して謀臣とし、共に国事を計るようになります。
・
・
・
実は、闔閭が即位した年に佞臣の費無極は誅殺され、伍子胥の父兄を殺した平王はその前年に死去していました。
しかし、それを知っても伍子胥の復讐心が衰えることはありませんでした。
「楚を滅ぼし、平王の墓をあばき、その魂魄を必ず断ち切ってやる!!」
そこまでする必要があるのか?という声が聞こえてきそうですが(笑)、それをしなければ父と兄の無念は晴らせない、という強い思いが伍子胥にはあったのではないでしょうか。
そして、そんな伍子胥は一人の知己を得て、闔閭に推薦します。
かの有名な兵法書『孫子』の著者とされる天才兵法家の孫武(そんぶ)です。
続く・・・・・
1年以上まともな記事を書いていなかったんですね
また少しずつですが書いていきますので宜しくです。
まずはこちらの続きから・・・・
復讐の瞬間(とき)1―――伍子胥1―――
楚(そ)の平王(へいおう)と佞臣である費無極(ひむきょく)により父兄を殺された伍子胥は復讐のため楚を出奔します。
出奔経路は諸説あるのですが、たぶん先に亡命をした太子健(たいしけん)の後を追い、宋(そう)から鄭(てい)と渡り歩いたというのが妥当なのではないかと思われます。
太子健も父親である平王に新婦を奪われた上に、謀反の濡れ衣を着せられたことにより亡命を余儀なくされており、その太子健とともに復讐を行い、正当な跡継ぎである太子健を楚王に立てる、という遠大な計画を伍子胥は考えていたのではないかと思うからです。
ところが当時の鄭にはそのような国力はなく、結局太子健は殺されてしまい、伍子胥は楚の東隣にある呉(ご)に落ち延びます。
呉はその当時急速に力をつけてきた国で、楚にいた伍子胥はそのことを知っており、「この国なら・・・」、と目星をつけたのではないでしょうか。
さて、ここで伍子胥のことをちょっと離れて呉という国についてちょっとお話ししてみたいと思います。
呉は酒池肉林で有名な商(しょう;殷とも)の紂王(ちゅうおう;受王とも)を滅ぼした周(しゅう)が西方の豪族に過ぎなかった頃、君主であった古公亶父(ここうたんぽ)の子である太伯(たいはく)と虞仲(ぐちゅう)がたてた国である、という伝説を持っています。
ちなみに、商を滅ぼしたのは周の文王(ぶんおう)・武王(ぶおう)ですが(正確には武王の代で商を滅ぼしている)、文王の父親を季歴(きれき)といい、太伯と虞仲は季歴の兄になります。
蛇足になりますが、この当時の男子は名前によって何番目の子かが大体わかります。
長男の場合は伯か孟、二男は仲、三男は叔、末弟は季という字がよく当てられます(四男五男は?という突っ込みはしないでくださいね(*^▽^*))。
現代の日本では仲父や季父は死語になっていますが、伯父(伯母)や叔父(叔母)は今でも使われていますよね。
その名残なのではないかと思います。
ここで、名前からもわかるように太伯(長子)、虞仲(次子)を差し置いて季歴(末子)が跡継ぎになったのは何故?と疑問をお持ちの方もいると思います。
これは古公亶父の君主時代、季歴に息子の昌(しょう;のちの文王)が生まれた際に、この子が聖人になるというめでたい瑞がありました。
そのため、太伯と虞仲は「父は季歴に跡を継がせ、昌の時代で繁栄するのをお望みなのだ」と語り合い、周を離れてはるばる呉の地に行き定住した、といわれています。
そしてまたまた蛇足ですが、呉の始祖という伝説を持つ太伯は日本にもゆかりがあります。
最近BSで新作が放映されていますが、TVドラマ等でみなさんご存知の水戸黄門(徳川光圀)ですが、彼は俳句や書簡などを書く際に梅里(ばいり)という号を使用しました(実際にTVドラマでも使用していた記憶があります)。
その梅里というのは太伯が落ち着いたところであり、太伯を尊崇していた黄門様はその地名を自分の号として使ったんですね。
有名な武田信玄の風林火山をはじめ、当ブログでも紹介した織田信長の岐阜という地名の命名(三年鳴かず飛ばす)など、当時の大名級の人物が中国史に精通していたことをうかがわせるお話ですね。
さて、呉という国の始祖が太伯であるかどうかの真偽がさておき、この国に一人の英主が現れます。寿夢(じゅぼう)です。
寿夢の元年は紀元前585年であり伍子胥の活躍する時代に先駆けること80年ほど前のことです。
寿夢もちょこっとだけですが、当ブログに登場しています(夏姫外伝)。
その寿夢には子が多くいたようですが、末弟の季札(きさつ)が最も賢明でした(ちなみに季札は当時の中華の最高の知識人ともいわれています)。
そのため、寿夢は季札に跡を継がせようとするのですが、季札は拒み続けます。
やむなく寿夢は長子である諸樊(しょはん)を立てて亡くなります。
諸樊は服喪が終わると、父である寿夢の遺志を尊重して、季札に王位を譲ろうとするのですが、季札は「君は正しい嗣子です。私が国を預かるのは節義が許しません」と頑なに辞退します。
諸樊は仕方なく王位につき、亡くなる際に下の弟にこのように命令を残します。
「わが子ではなくそなたに位を伝える。君主になったら自分の子には位を継がせず、兄弟の次序の通りに位を伝えて、最後には季札が国主になるようにせよ」
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やがて時はめぐり・・・・・
順番は季札のところまで回ってくるのですが、ここでも季札は固辞します。
困った呉の大臣たちは、亡くなったばかりの呉王句餘(こうよ)の息子である僚(りょう)を王に立てます。
伍子胥が呉に来たのは、この呉王僚の時代になります。
*呉の王室の長幼や親子関係については諸説あります。
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呉についた伍子胥は早速呉王僚に謁見し楚を征伐するよう説くのですが、それを聞いていた公子光(こう)に「そのものは父兄を楚に殺されて、その恨みを晴らそうとしているだけです。お許しになってはいけません。」と献策を妨げられます。
この公子光という人物は諸樊の嫡子であり、「季札が王位を継がないのであれば自分こそが正当な後嗣である」、と思っていました。
伍子胥の器量を知っていた公子光は、伍子胥が呉王僚の謀臣となるのを妨げたんですね。
慧敏な伍子胥も「公子光には他の志があるようだ」と察し、鱄設諸(せんせつしょ)という勇士を公子光に推薦し、自らは野に下り耕作をしながら時期を待ちます。
そして、7年後・・・・・
公子光は鱄設諸を使って呉王僚を暗殺し、即位します。
この時、季札は中華諸国を外遊中だったのですが、帰国すると「社稷を奉じて、国家を傾けるようなことをしなければ、新君は私の君です。死者を哀しみ、生者に仕えて、天命を待つことにしよう。立ったものに従うのが、先人の道である。」と言い、公子光を呉王とすることを認め、復命後呉王僚の墓前で哭泣したそうです。
季札は呉の良識の象徴でもあり、季札に認められたということは呉の国民にも認められたことにもなります。
公子光は安心して季札を以前通りに延陵(えんりょう)に封じます。
さて、即位した公子光ですが、彼こそ春秋五覇(しゅんじゅうごは)の一人に挙げられることもある呉王闔閭(こうりょ)です。
闔閭は大志を持っており、早速伍子胥を召して謀臣とし、共に国事を計るようになります。
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実は、闔閭が即位した年に佞臣の費無極は誅殺され、伍子胥の父兄を殺した平王はその前年に死去していました。
しかし、それを知っても伍子胥の復讐心が衰えることはありませんでした。
「楚を滅ぼし、平王の墓をあばき、その魂魄を必ず断ち切ってやる!!」
そこまでする必要があるのか?という声が聞こえてきそうですが(笑)、それをしなければ父と兄の無念は晴らせない、という強い思いが伍子胥にはあったのではないでしょうか。
そして、そんな伍子胥は一人の知己を得て、闔閭に推薦します。
かの有名な兵法書『孫子』の著者とされる天才兵法家の孫武(そんぶ)です。
続く・・・・・