人生において「全体運」が絶好調な日は、最も警戒すべき時だ。運命という名の天秤は恐ろしいほど正確で、片方の皿に「最高の晴天」を載せたら、もう片方の皿には執拗なまでの「微細な嫌がらせ」を盛り付け、帳尻を合わせるからだ。
昨日の出張は、まさにその天秤が激しく、かつ姑息に揺れ動いた一日だった。
始まりは完璧だった。予報を覆す突き抜けるような青空の下、出張先にてレンタサイクルで駆ける。いつも駅に置いていない自転車を無事に確保できた瞬間、私は今日の勝利を確信した。しかし、運命の演出家は、その背後でニヤリと笑いながら脚本を書き換えていたのだ。
最初の一撃は、滅多に来れない場所にもかかわらず、お目当てのお土産屋が閉まっていたことだ。そして、撮ろうと思っていた記念写真を撮り忘れながらも、無事に出張は終わった。
続いて帰路の特急列車。私は乗車駅から隣席上のランプを注視し、最大のポイントとなる駅を「空席(ランプが赤色)」のまま通過した。勝った。東京まで聖域(隣の空席)は守られた ー そう安堵した刹那、現れたのは「座席未指定券」という制度の盲点を突いた一人のおじさんだった。期待値が最高潮に達した瞬間に、ピンポイントで「想定外」を差し込んでくるこの手口。あまりに鮮やかで、悲壮感を通り越して感心すら覚える。
だが、運命の追撃は止まらない。念のためにポイント駅までに済ませたはずのトイレなのに、おじさんを迎えた直後に二度目の尿意が襲う。狭い車内、気まずさを抱えて席を立つ際、私は荷棚に頭を強打した。精神的ダメージに物理攻撃まで加わり、もはや「トホホ」という乾いた笑いしか出てこない。おじさんが良さそうな方だったのがせめてもの救いだ。
乗り換えもまた、乗り換え列車の始発ホームでは、一本見送ってまで先頭に並んだ私の「お気に入りの端席」にいた先客のおばさんが降りずに居座っていた。おそらく乗り過ごしか、あるいは時空の歪みか。私はやむなく対面の席で虚空を見つめるしかなかった。
目的の駅に辿り着き、最後の抵抗としてラーメン屋へ。私の入店直前にひとりの若者がさっと入っていった。彼は入店直後、携帯を見ながら立ち止まった。私は先に行っていいか困惑し、声をかけたら「どうぞ」と言われた。疲れているのに余計な気を遣わせないでほしい。
ようやく席についても、今度は頼んだビールがなかなか来ない。「まだ来てないんですけど」「分かりました」からまだ来ない。喉が鳴り、準備は万端、あとは流し込むだけという極限の状態で「おあずけ」を食らわされるこの生殺し感。更に、ツマミにしようと思っていたメンマは無く、やむなくチャーシュー二枚追加という荒業。最後まで予定通りにいかない徹底ぶりである。
振り返ってみれば、晴天の中を走り、無事に仕事を終えた。その過程で起きた数々の災難は、この「全体運の良さ」を維持するための、ささやかな供物のようなものだったのかもしれない。運命という名の精密機械に、一日中これでもかと「微調整」を余儀なくされた。「運」など存在しないと主張する私に、思う存分「運」を味合わせてやろうということだったのか。